
私が日本絵画担当の学芸員として勤務する出光美術館(東京)は、2024年をもって展覧会活動を終え、建て替えのための休館期間に入った。1966年の開館以来、開催された展覧会は300回あまり。その多くは、いわゆるコレクション展というべき内容を持つ。
展覧会の性格を説明するとき、企画展(または特別展)と常設展の2種類に分けられることが多い。前者は、他の所蔵者や機関からの作品借用をともなう展覧会のことらしい。後者は、自前の所蔵品を展示するものというから、当館が続けてきた展示活動の多くはこちらの条件に適(かな)う。もちろん、当館で扱われる美術作品のなかには脆弱(ぜいじゃく)な素材を用いたものも多いため、海外の美術館のようにコレクションの目玉作品を常に展示することは不可能だが、借用作品を含まないという点において、その展覧会の基本的な態度は、企画展よりも常設展のほうに近いといえる。
だが、昨年を通して当館で開催されたコレクション展の会期中、展覧会場で私が目にしつづけたのは、反復された展示のなかに一回性を見出(みいだ)し、それを心から味わおうとする来館者の姿だった。展示室に並んだ作品は当館の所蔵品であり、これまでに何度となく展示されてきたものばかりである。また、一部の展示構成は、過去の展覧会をなぞったものでさえあった。確かに、建て替えられる前の美術館を体験しておこうという動機はあっただろう。それでも、少なからぬ人々が既知の作品との邂逅(かいこう)を好意的に捉えたのは、社会の価値観や情勢などの外的要因とその時々の自身の境遇や感情などの内的要因に応じて、作品の見え方が一変することを、鑑賞者自身がおそらく知っていたからである。新鮮な再会という撞着(どうちゃく)語法を用いることがふさわしい作品との接し方が、常設展にはあるのだ。
残念なことに、この常設展にはネガティブな印象がつきまとう。同じ作品が似たような順番で並べられ、同じキャプションや作品解説が使いまわされる、といった具合に。そんな代わり映えのしない反復性が、ともすると常設展はつまらない、という感情を来館者に植えつける。一方、企画展は「いま」と「ここ」を多くの人々へ訴求し、その新鮮な一回性が未見の作品との出会いを望む鑑賞者の好奇心を満たすかもしれない。
また、学芸員が展示作品について解説してまわるギャラリートークでは、同じ展覧会にもかかわらず毎回のように参加する人の数が、一人や二人ではなかった。それはひとえに、展示のライブ感を楽しもうとする気持ちのあらわれにほかならない。私にとっても、その場の来館者と一緒に意見を交わすことによって思いがけない鑑賞の視点を得る局面が確かにあった。
80年代後半以降、博物館をめぐる欧米の研究において、展示室はそこに並べられた作品の意味をめぐる価値対立的で動的な場と考えられるようになった。そこでは、展覧会がもたらす知識が、学芸員のような特権的な立場から一方的に供与されるものではなく、来館者の能動的な関わりによって醸成されることが目指される。休館中、一時的にその大切な機会を失った私にとって、美術作品を介した鑑賞者との対話がどのように試みられるべきか。ささやかながら、その模索の結果を発信してゆきたいと思う。
2025年4月14日 毎日新聞・東京朝刊 掲載