話をしながらも、何かを描いている。「勝手に手が動くんです」。呼吸するように絵を描く。それが画家・イラストレーターの黒田征太郎さん(86)だ。作品には鳥がよく登場する。境界を軽々と越え、自由に飛び回る姿は憧れであると同時に黒田さんの生き方のようでもある。
大阪で生まれ、高校を中退して船員となる。アメリカ放浪を経て、帰国後、東京でイラストレーターとして活躍。絶頂期に再び、アメリカに拠点を移し、原爆被害と被爆体験を次代に伝える「ピカドン・プロジェクト」などを展開。70歳でそれまで縁のなかった北九州市に移り、「絵のようなもの」を描き続けている。絵も生き方も自由。その原点は幼少期にさかのぼる。
1939年、第二次世界大戦勃発の年に生まれた黒田さんは、終戦の年の45年、最後の国民学校生となる。「1+1=2と習うが、なぜ1と1を足さなければいけないのか」が理解できず、学校への興味を失う。黒田少年の目にとまったのは地面に線を描き続けている近所のおじさんの姿だった。黒田さんもまた小石を手に地面に線を描き始めた。「今でもその延長線上にいる。変わっていない」
鬱屈した思いを晴らしてくれたのが、9歳の時に出合った手塚治虫の漫画だった。手塚の長編デビュー作「新宝島」を読んだ時の衝撃は今も鮮烈だ。坂道を下って港を目指す主人公が乗った車の車輪は疾走感を表すため、楕円(だえん)にゆがみ、電柱も曲がって描かれていた。「これだ!と思った」。学校では車輪は丸く、電柱は真っすぐに描かねばならない。「絵はもっと自由なんだ。好きに描いていいんだよと言ってもらったようだった」
16歳で高校を中退。家出し、そのまま米軍用船の船員となって東南アジアを巡る。夜になると甲板で絵を描いた。米兵たちが船に残したアメリカの雑誌を見て、いつかアメリカへ行き、雑誌に絵を描きたいと夢見た。
ほどなく船を下り、職を転々とした後、22歳で早川良雄デザイン事務所の門をたたいた。独学で絵を学んだ黒田さんは当初断られたが、何度も頼み込み「下働き」として入ることができた。早川事務所には66年まで勤めたが、「今でも僕が『先生』と呼ぶのは早川良雄さんだけ」。そこで出会ったのが、後に盟友となる長友啓典さん(故人)だった。
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黒田さんにとって、幼い頃からアメリカは憧れだった。進駐軍の乗る四輪駆動車に夢中になり、102階建てビルのあるマンハッタンにいつか行きたいと願った。事務所を退職した黒田さんは、28歳で渡米、幼少期の夢を実現した。
翌年、帰国し、69年に長友さんとデザイン会社「K2」を設立した。時代は高度経済成長期。各種のポスターや雑誌の表紙などを手がけ、黒田さんは一躍、時代の寵児(ちょうじ)となっていく。本業だけでなく、テレビ出演などもこなし、多忙な日々を送っていたが、50歳を過ぎた頃「もっと絵が描きたい」と東京を離れ、再びアメリカへ向かった。
94年、ニューヨークの書店で直木賞作家、野坂昭如さんの「戦争童話集」を手にした。これが、戦争から距離を取っていた黒田さんが平和や反核を訴える作品をつくるきっかけとなる。「戦争童話集」は、太平洋戦争を経験した野坂さんが反戦の思いを込めてつづった鎮魂の物語だった。戦争で犠牲になるのは人間だけではなく、自然の全て--。そんなメッセージに共感し、作品に入れ込んだ。
戦後50年を迎えようとする日本では、戦争のことは「過去のこと」とされつつあった。そんな風潮にも違和感を覚えていた。「この作品をもっと広めたい」と、野坂さんに絵本化を直談判。さらに映像化にも取り組んだ。野坂さんに勧められ、第二次大戦が勃発したポーランドのグダニスクを訪ね、さらにアウシュビッツにも何度も足を運んだ。
さらに95年、阪神大震災が起こる。居ても立ってもいられず帰国し、被災地に足を運んだ。そんな黒田さんに声がかかった。「黒田、看板ぐらい描けや」。仮設住宅や避難所、商店など「200以上の看板を描いた。絵でできることがあった」。以降、黒田さんは国内外の被災地を巡り、絵を描くように。東日本大震災でも東北に通い被災者と一緒に絵を描いた。
2004年からは「ピカドン・プロジェクト」に発起人の一人として参加、ライブペインディングなどを展開する。きのこ雲には「NO」の文字、きのこ雲を反転させるとフラスコになる。そこに花を挿し、「YES」と描いた。「NO」だけでは足を止めなかった人々も「YES」の文字を見て話しかけてくれた。

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09年に北九州市門司区に思い立って居を移した。関門海峡を望む門司区の「作業場」は一部を開放し、若いアーティストらと共同で使っている。
「どうして人間は絵を描くのか。きっと最初に虹を見た時、それを自分のものにしたかったんじゃないかな。絵や音楽は自然が人間に教えてくれたもの。もっと自然に感謝して、大事にしていかないと」
今日も絵を描く手は止まらない。
◇音楽と共鳴、公開制作
太鼓のリズムに合わせ、体全体でリズムを取りながら激しく、あるいはそっと、筆を走らせる。黒田さんのライフワークの一つ「ライブペインティング」(公開制作)だ。ミュージシャンの生演奏と共鳴し、即興で「手が動くまま」描いていくパフォーマンスで、これまで国内外のミュージシャンらと1000回以上開催した。ホールからライブハウス、被災地、小料理屋まで、さまざまな場で実施。30~40代の頃に歌手・北島三郎さんのツアーに密着し、自身もレコードを出した。そうした中で「絵と音楽は同じ幹から出ている枝葉だ」と気づいたことがきっかけという。現在、開催中の北九州市立美術館での大規模個展会場でも披露した。
1939年 大阪市生まれ
55年 16歳で家出し、米海軍軍用船に船員として乗り込む
61年 早川良雄デザイン事務所に下働きとして勤務
67年 アメリカへ渡る
69年 長友啓典さんとデザイン会社「K2」設立
92年 ニューヨークに拠点を移す
94年 野坂昭如さんの「戦争童話集」と出合い、映像化を手がける
2004年 「ピカドン・プロジェクト」に発起人の一人として参加
09年 ニューヨークから北九州市に拠点を移す
25年 北九州市立美術館で大規模個展開催
2025年11月3日 毎日新聞・東京朝刊 掲載