「それはもう戦争はいいもんじゃないですけど、まさかあんな結末になるとは思いもしなかったというか……」
画面の中の「ヤギ」が、第二次大戦中、彫刻家として戦意高揚に協力した自らの過去を振り返る。終始淡々とした口調は、妙にリアルだ。

日本の彫刻史において、戦時下は長く「空白期」とされてきた。果たして本当にそうだったのか。戦後80年の今、当時の創作を追い、「空白」に目を凝らす表現者がいる。
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広島市現代美術館で開催中の企画展「被爆80周年記念 記憶と物」(9月15日まで)に出品された映像作品「うえだのためのプラクティス」。近現代の彫刻家をテーマに映像作品を手がけているアーティスト、黒田大スケさん(43)が制作した。
作品や人物のリサーチをもとに、その彫刻家になりきり、即興で演じている。その際、彫刻家と関連する動物を顔に描く。ビジュアルも脱力感あふれる口調もユーモラスなのだが、その多くは戦争に協力した彫刻家の姿を映す。
「うえだの……」で取り上げたのは、広島県呉市出身の彫刻家、上田直次(1880~1953年)。「平和の心情」を表したいと追求したヤギのモチーフで名を成したが、時代が戦争へ向かうと、軍人らの肖像を手がけた。企画展では黒田さんの作品と同じ章に、上田の作品が2点展示されている。一つはヤギの親子像「愛に生きる」(31年、8月13日からは「山羊」に展示替え)。もう一つは「杉本五郎像」(38年)だ。
日中戦争で「皇居方向に挙手敬礼したまま絶命」する壮絶な最期を遂げたとされる杉本五郎中佐は、軍神とあがめられた。書簡を集めた『大義』が死の翌年に出版され、ベストセラーに。銅像は同じ年に作られ、43年の金属回収令により供出されたことになっていたが、戦後、軍関係の倉庫で発見。現在は広島県立美術館に収蔵されている。
正反対に見える上田の表現だが、当時の彫刻家としては珍しくない。資料を調べた黒田さんの印象も「彫刻家に職人的な意識が残っていた時代の、素朴な人という感じ」。
「うえだの……」で「ヤギばっかり作って生きていけたらいいんですけど、実際にはお金も要るし、家族もある」と述べるヤギは、映像の最終盤、「彫刻家とか芸術家とかいうのはそういうもんで、戦争とはほど遠いイメージがあるけれども、実際にはそこに深く関わっているということはあるんです」と語る。その口調は、どこか人ごとですらある。
黒田さんは高校から彫刻科で学び、広島市立大に進んだ。人体彫刻ばかりをたたき込まれる日本の専門教育に疑問を抱いたことがきっかけで、近代日本における彫刻の成り立ちや歴史に目を向けるように。行き当たったのが「空白」の時代だった。
調べてみると、戦時下は空白期などではなかった。材料不足こそあったが、戦争という新たなテーマを得て、彫刻家たちはこぞって戦意高揚のために制作していた。しかし戦後、その責任を問われた者はなく、一線で活躍を続けた彫刻家も多い。
戦時下の創作について検証が十分されてこなかったことが、自分の違和感の源泉なのではないか。そう考え、何人もの彫刻家を丁寧に調べ、「なりきって」きた。「作るという行為は尊くて善良だと信じていたことが、戦時下の彫刻家を生んだのではないか。時代のせいと言われればそうなのかもしれないけど、やったことには何かしらの責任があるはずです」
当時の彫刻家を批判的に見る一方で、リサーチや制作を通じて湧き起こったのは、「自分だったら戦争協力せずにいられたか」という恐怖だ。戦争が絶えず、排外主義が広がる今、問いは切実さを増す。「上田直次は明日の自分かもしれないということは、考えておかないといけない」。展覧会場に並んだヤギの親子と「軍神」を前に、黒田さんはつぶやいた。
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7年前、彫刻史をめぐる1冊の本が出版された。タイトルは「彫刻1 空白の時代、戦時の彫刻 この国の彫刻のはじまりへ」(トポフィル)。「空白期」とされてきた第二次大戦下と、明治の草創期の彫刻に焦点を当てた500㌻を超える論集だ。
編著者は、彫刻家で評論家の小田原のどかさん(39)。「彫刻のあるまち」仙台で生まれ育ち、自然と彫刻家を志した。腕力や強健な体力を前提にしたような「マッチョ」な空気に違和感を覚え、いったんは別の専攻へ進むも、その後、多摩美術大の彫刻学科に編入。そこで、違和感が明確な疑問へと変わった。

原因の一つが、技術中心の指導だった。「『野性が鈍るから勉強するな』と言われました。歴史や理論を学ぶ機会はなく、作家のカタログを見ているだけでも止められた」。反動のように学び続け、筑波大博士課程に在籍していた2014年、長崎市で「平和」を冠した彫刻群をリサーチした。
誰もが知る「平和祈念像」の作者、北村西望(1884~1987年)は、戦意高揚彫刻をリードした一人だが、筋骨隆々の作風もそのままに戦後、平和の像を作った。周囲には核保有国から贈られた「平和」の彫刻もある。市が被爆50周年記念事業で設置した「母子像」には被爆者らが反対。宗教性などをめぐり、市民団体によって違憲性を問う裁判が行われていた。
戦争を賛美した彫刻家が戦後は平和を掲げて作り続けた、その連続性の先に自分も連なっているということ。平和の名の下に作られた彫刻が、実際に人々を苦しめていたこと。「『作ることは素晴らしいことだ』ということしか教えられず」、知ったり考えたりしてこなかった自分を強く恥じた。
「学ぼうにも、本がない」状況をまず変えようと、本作りに取りかかった。「彫刻1」では研究者らの論考や彫刻家のインタビューを収録し、小田原さんは近現代日本のモニュメントについて執筆。戦前の軍人像と戦後の女性の裸体像に連続性を見いだし、為政者の宣伝装置になりやすい彫刻の性格や、裸体像を巡るジェンダーの問題などを論じた。
長崎で受けた衝撃から、一時は「もう作られなくていい」「なくなってもいい」とまで思い詰めた彫刻を、今は少し違う目で見ているという。「もっと多様な意見が衝突し合って社会が緊張状態になることで、民主主義は成熟していく。その時に彫刻というのはすごく便利。喫茶店で直接戦争の話はできなくても、あの彫刻どう思う、という話ならできる」
「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命は大事だ)」運動で、奴隷制度を支えた「偉人」像が引き倒された米国では、トランプ政権下で反動的な動きが続く。「多様な意見が可視化されたらすごく疲れるから、耐えられないんです。でも日本はそういう経験すらしていない。例えば、在日外国人やアイヌの人たちが自分たちのモニュメントを自分たちの手で作りたいということがもっと起こってもいい。そういう議論が、彫刻なら、できるんじゃないか」
「彫刻」シリーズの出版は「50年は続けたい」と話す。22年の「彫刻2」に続き、来年、「彫刻3」を刊行予定だ。
【彫刻家の戦争協力】
軍人や歴史上の人物から、「勤労奉仕」「良妻賢母」といった銃後の姿まで、戦時下の彫刻家は戦意高揚に資するさまざまなモチーフを作品にした。戦争画ほど知られていないが、1939年結成の陸軍美術協会をはじめ戦争協力のための美術団体に彫刻家も名を連ね、「聖戦美術展」など美術展にも参加。技術を生かし軍需品製造に携わった彫刻家もいた。公共彫刻の多くは金属供出や空襲、連合国軍総司令部(GHQ)による撤去などで失われた。
2025年7月28日 毎日新聞・東京朝刊 掲載