多くの観客でにぎわう「第76回毎日書道展」の会場=東京都港区で9日、小林努撮影

【寄稿】
第76回毎日書道展を見て
今を生きる書

文:山﨑亮((やまざき・あきら=成田山書道美術館学芸員)

山﨑亮(成田山書道美術館学芸員)=著作・毎日

 いよいよ今年も毎日書道展が始まった。書の展覧会シーズンの始まりを告げる同展は、まさに戦後の書道展全盛時代の先駆けとなった展覧会でもある。今年はどんな発見があるのか楽しみに会場に向かった。

 毎日書道展の始まりは、昭和23(1948)年に東京都美術館で開催された全日本書道展である。当時の日本はGHQ(連合国軍総司令部)の占領下で、欧米的概念が盛んに取り入れられていた。敗戦のショックでこれまで信じられてきたことへの信頼が薄まり、文化の喪失が危ぶまれていたこの時期に社会のオピニオンリーダーであった新聞社が書の展覧会を主催した意義はとても大きかった。

 かつての書は、高い技術はもとより、書者が高い精神性と品位を求められたいわば高踏的な営みであった。そのステータスこそ書の魅力の一つであったのだが、それのみを墨守することは民主主義下の大衆社会において受け入れられにくいものであったことは想像に難くない。毎日書道展はこうした社会の変化に柔軟に対応して、新たな時代に即した現代の書を大乗的見地から受け入れ、展覧会を通して活動を支援することで育んできたのである。こうした書の領域を広げる取り組みは、古典派、前衛派の枠を超えて現代の書を大いに活性化させる要因となった。毎日書道展の存在は、現代の書を考える上で極めて大きいものである。

 第76回となる今回展では余白が目に留まる作品が多かったように感じられた。印象としては、紙面から文字があふれるダイナミックな表現や直情的な造形的表現が以前より少なくなったと感じた。鑑賞を終えて振り返ると、溢れる魅力を押し出すイメージの作品が減り、め込んだ魅力で人をきつけるイメージの作品が増えた気がした。

 美術作品には作家の世情感がどこかに垣間見えるものだ。魅力が溢れ出すような書は、どこか急成長し続けた経済大国日本のイメージとも重なって見えた。バリバリ働くモーレツサラリーマンにも近いイメージかもしれない。そのせいか、最近は作品から溢れ出す力強さにある種の郷愁を感じてもいた。現実社会との時代感の差を感じていたのだろうか。

 76回展では時の流れがやや遅くなるような感覚に至る瞬間があった。余韻といってもよいかもしれない。余白が生きた作品には内側に気がこもり、る人を惹きつけるような魅力がある。余韻に浸りながらふと現実社会との共通点を考えてみた。

 コロナ禍を経て、人の世情が変化したのかもしれない。日本も人口減少が加速し、成長よりも成熟した社会を目指す時代になった。拡大志向というよりは、内面に向かう充実が次の時代のテーマなのかもしれない。

 文部科学大臣賞に輝いた山中翠谷氏の「益壽」は、パンフレットの写真版では一回り大きな作品をイメージしていた。実際に見てみると額装作品で、黒色の額縁が作品の輪郭を確かなものとし、シャープなイメージの作品として目に入ってきた。生命感のある線質にも心惹かれた。パンフレットで見た表具部分のない写真では、伸びやかな線質と潤いのある墨色が印象に残り、スケールの大きさを感じていた作品である。やはり書は表具が担っている部分も大きい。写真版と実際の展示作品とでは異なる、内から発散するような魅力と、内に凝縮していく魅力の両方を感じることができた。今は画像情報を手に入れることも容易な時代だが、直接作品を観ることの重要性を再認識した一事であった。

 毎日書道展では今を生きる人々の書を観ることができる。平安時代の貴族の生活は縁遠くても、同じ時代を生きる人々ならばある程度、同じ目線でイメージできるはずだ。書愛好者のみならず、やや縁遠く感じている皆様にもぜひお勧めしたい展覧会である。

2025年7月23日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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