
近代日本画を代表する一人であり、日本の女性芸術家のパイオニアでもある上村松園(1875~1949年)。その生誕150年を記念した大規模回顧展が、大阪中之島美術館(大阪市)で開かれている。自らが信じる美を一筋に追い求め、到達した高みは、現代を生きる私たちの目にも清らかな喜びを与えてくれる。
冒頭に展示された「四季美人図」(1892年ごろ)は、四季を連想させる4人の女性を1枚の絵に配置する。弱冠15歳の松園が東京・上野の内国勧業博覧会で褒状を受け、さらには訪日中の英国王子が買い上げたことで話題を呼んだ同名作(90年、所在不明)と同じ構図で描かれたものだ。季節の移ろいに重ねたのは、少女期を過ぎ、結婚や出産を経て年を重ねていく当時の女性の人生。着物の色柄や髪の結い方で細やかに描き分け、その時々の女性の美しさを表そうとした作品には、画家人生を貫くテーマがすでに見て取れる。

同じ章の「青眉」(1934年、前期展示)は掛け軸横物のサイズに女性をクローズアップして描く、松園様式の出発点となった作品。この年亡くなった母仲子をモデルに描いた。女性が画家として立つのが困難な時代に、娘を支え、励まし続けた仲子を、松園は生涯敬慕し、理想の美とした。中でも江戸期の風習の名残である母の「青い眉」は、幼き日の麗しい思い出として松園の心に刻まれていた。
本展はテーマ別の4章構成。「四季美人図」や「青眉」が展示されている「人生を描く」から始まり、「季節を描く」「古典を描く」「暮らしを描く」と続く。絵画110件に加え、ストイックな探究ぶりがうかがえる下絵や素描40件が並ぶ。
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「私は芸妓(げいぎ)ひとつ描く場合でも、粋ななまめかしい芸妓ではなく、意地や張りのある芸妓を描くので、多少野暮(やぼ)らしい感じがすると人に言われます。(中略)しかし、それも私の好みであってみれば止(や)むを得ません」
自らの作画について、晩年の随筆集『青眉抄』でつづった一節だ。松園30代半ばの作「よし野太夫図」(10年ごろ、前期展示)に描かれた京都島原の名妓、吉野太夫は柔らかく、かわいらしさを残す。一方、随筆で例に挙げた「天保歌妓」(35年、同)で着物の裾を左手で上げ、げた履きの足を少し広げて立つ芸妓の姿は堂々たるもの。四半世紀にわたる探究の軌跡が見える。

早くから官展で活躍し、名声を確立した松園だったが、その高潔な女性画は「官能性や人間味に欠ける」という批判も受けた。特にリアリズムが流入し、近代的な個性が叫ばれた大正期には松園自身も悩み、スランプに陥ったこともあった。転機となったのは、能や仕舞に取材した作品。感情表現を抑え、内面の強さを描き出す手法を確立した松園は、洗練された画風にさらに磨きをかけていく。
「草紙洗小町(そうしあらいこまち)」(37年、同)は能楽を題材にした作品の一つ。宮中の歌合わせを前に、勝ち目がないと考えた大伴黒主に歌を盗み聞きされた小野小町は、自身にかけられた盗作の疑いを晴らすため草紙を水で洗い流す。右手に扇を持ち、片膝を立てて草紙をすすぐ小町の表情は能面のように描かれ、感情をそぎ落とした中に決然とした意思を見せる。

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生まれる前に父を亡くした松園は、母のバックアップで好きな絵の道へ進んだ。27歳で、後に同じ道を歩む松篁(1902~2001年)を産んでシングルマザーになると、母が切り盛りしていた家業の葉茶屋をたたみ、絵一本で大黒柱として立った。小川知子学芸員は「すべて自分の考えで動いて判断し、心ない言葉もはねのけて、努力を怠らず名声を築いた。強烈な強さを感じます」と印象を語る。
凜(りん)として美しい女性像は、松園の強さを映す。「近寄りがたい」とも言われるが、その普遍的な強さゆえに「これから日本の若い女性たちに支持されていく存在かもしれない」と小川さん。「生誕150年記念 上村松園」展は6月1日まで。作品の入れ替えがあり、前期は5月11日(一部18日)まで。同13日からは重要文化財「母子」「序の舞」などが、同20日からは「花がたみ」「長夜」などが展示される。
2025年4月14日 毎日新聞・東京夕刊 掲載