
地下鉄神保町駅から皇居方面へ少し進んだ左手に、学士会館が見えてくる。4階建ての旧館と5階建ての新館からなる焦げ茶色の会館建築は、旧帝国大学出身者の親睦と交流を目的とした学士会の拠点である。
現在、再開発に向け休館中の学士会館は、関東大震災後に建設された復興建築でもある。学士会のための会館は、大正初期に建てられたものの火災で焼失し、その後再建計画が進められていた。しかし1923年の関東大震災を経験し、構造を補強するよう設計修正が必要であること、また震災後の土地区画整理事業により敷地の形状が変わることなどから、計画を白紙に戻して建築設計懸賞、いわゆる設計コンペが開催されることとなった。
25年、学士会会員であることを応募条件としたこのコンペにより、当時、宮内省内匠寮の技師であった高橋貞太郎が1等に当選する。実施設計にあたっては、高橋の大学時代の恩師であり、宮内省内匠寮の上司でもあった佐野利器が設計を監修し、学士会館の設計者及び監督者は、佐野、高橋の連名となっている。
佐野は、日本の耐震工学の父と目される人物である。震災直後には帝都復興院の建築局長、その後東京市臨時建築局長を東大教授と併任し、26年には不燃建築の建設を支援する復興建築助成株式会社の設立に尽力しており、この会社に高橋を引き抜いたのも、佐野であった。学士会館は、関東大震災の復興建築を陰で支えた建築家の合作でもあった。
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学士会館(旧館)は、耐火・耐震性を備えた鉄骨鉄筋コンクリート造で、28年に竣工(しゅんこう)した。L字形平面の地下1階、地上4階建てで、1階には玄関ホールや事務室、2階には大集会室と大食堂、4階には宿泊室が設けられている。基礎には、長さ約20㍍の松杭(まつくい)を約700本打ち込み、当時としては珍しい大型のH形鋼柱を使用するなど、佐野の指導のもと、高い耐震性と安全性が確保された。外壁に用いられたのは焦げ茶色のスクラッチタイル。フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルに用いられたことでも知られ、大正末から昭和初期に流行した素材である。
学士会館の設計については、「簡素質実」を基本に、「古典建築の雅味、壮重(そうちょう)さ、近代建築の気品、明快さ」を調和させることを目指したと述べられている(『建築雑誌』28年6月号)。実施設計はコンペの当選案から変更されているが、コーナーに曲面を用い、大通りに接道する2面をゆるやかにつなぐかたち、上階にいくほど窓割りを細かくする立面の構成などは、当初から高橋が提案していたものであった。高橋の設計は、日本橋高島屋や、戦後の帝国ホテル新館など、奇をてらわず、シンプルでありながら力強さを感じさせる美しい構成を持つものであり、学士会館は耐震性とともに、優れた意匠性を持つと言える。
新館は、会員数の増加に対応して37年に建設された。設計は三菱地所勤務の藤村朗によるもので、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階、地上5階建てで、旧館の隣に寄り添うように建つ。1階には事務室、2・3階には大食堂兼集会室、4階に宿泊室、5階には結婚式場が設けられた。外観は、1階壁面を石張りとし、縦長の窓、4階窓の花台の設置など、旧館と足並みをそろえたかたちではあるが、スクラッチタイルを用いなかったのは、時代的な流行を反映したものかもしれない。
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学士会館は、残された数少ない復興建築であり、戦前期の優れた会館建築として、2003年に国の登録有形文化財に、さらに25年3月には東京都指定有形文化財に指定された。隣地と合わせた5年計画の再開発事業では、敷地が面する白山通りの拡幅にあわせて旧館を曳家(ひきや)して保存し、補強、活用していく方針が発表されている。
建築史上の価値が広く認められているだけでなく、学士会会員に長年愛され続けた建築としても、これからも長く活用されることを願う。
◇新館は解体、高層化
約100年の歴史を持つ学士会館(東京都千代田区)は老朽化による建て替えのため、昨年12月29日を最後に閉館した。新館は解体され、隣接するビルと共同で再開発される。2030年には宴会場や商業施設、オフィスなどが入る高層ビルに生まれ変わる予定だ。
文化的価値が評価される旧館は東側に7㍍動かし、耐震工事をしたうえで保存される。数々の映画やテレビドラマに登場してきたことでも知られ、TBS系ドラマ「半沢直樹」で堺雅人さん演じる半沢に、香川照之さん演じる大和田常務が土下座する有名な場面は、宴会場の201号室で撮影された。
PROFILE:
栢木まどか(かやのき・まどか)さん
1975年、東京生まれ。東京理科大卒。博士(工学)。同大助教、東大大学院特任助教、文化財保存計画協会特任研究員を経て、2014年より現職。専門は近代建築史。関東大震災の復興建築をはじめ、戦前の都市や建築を研究する。『復興建築 モダン東京をたどる建物と暮らし』(トゥーヴァージンズ)監修。
2025年4月7日 毎日新聞・東京朝刊 掲載