
◇うつろいの時間捉える
街角で思いも寄らないものと出くわす。そんなふうに写真と出合える展覧会「鷹野隆大(りゅうだい)カスババ-この日常を生きのびるために-」が東京・恵比寿の東京都写真美術館で開催されている。活動を全貌できた大阪・国立国際美術館での大規模個展から4年。今度は展示を全貌できないから生まれるわくわく感がある。
「都市空間、広場のような公園のようなものをお願いしました」。鷹野隆大さん(62)が、会場構成を担当した建築家の西澤徹夫さんに最初に要望したのは、こんなイメージだったという。
実験的な試みも含め、「写真とは」を問い続けてきた鷹野さん。1988年の初期の作品から最新作まで展示されるが、年代順にはなっていない。さまざまな角度で展示壁が建てられ、立つ場所によって見えるものが変わってくる--本展の展示風景は、西澤さんとの「往復書簡のようなやりとり」で実現した。
展覧会名にある「カスババ」とは作品シリーズ名で、鷹野さんの造語で「カスのような場」の意味。名づけとはうらはらに、ポジティブな営みでもある。若いころは嫌いだったという無秩序な東京・日本の街並みに、写真を撮るうち新たな視点を見いだしていった。「相手を理解できるようになって、おもしろさや敬意が生まれてきた。さらに、この乱雑さは、中心がなく複数のものが同時に存在するということであり、非常に現代的なのではないかと思いました」

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「象徴性みたいなものを警戒してきた」という鷹野さんが今回あえて踏み込んだのが、ポートレートのシリーズ「おれと」の展示だ。本展の中心となるように小部屋があり、白い壁に囲まれて1点がかかっている。撮影するなかで、そもそもは肌の色の確認のために、被写体のそばに自分も入って写したシリーズ。全裸の2人が「互いのもっとも弱い部分を互いに預け合う」(学芸員の遠藤みゆきさん)ようにして立っている。照れくさそうな表情や、どこか奇妙な2人のポーズは、性的でありながらおきまりのヌード写真からもずれていて、何もない空間のなかで見ていると、人間という存在のどうしようもないおかしみが浮かんでくる。
この部屋を「祭壇」に例えて説明していた鷹野さんに理由を尋ねると、「(作品が)いけにえみたいなもの」だからだと話した。ウクライナやガザを巡る状況、そして、表現やセクシュアリティーを規制するような米国の動き。展覧会準備の間に世界が激変していった。「暴力が顕在化し、力が求められるなか、力に力で対抗する状況から外れることが必要なのではないか」。そう考え、「弱さをさらけ出すことの象徴」として「自分でも恥ずかしいので積極的には出したくない写真」を選び、あえて展示したのだという。
慎重に言葉を選びながら付け加える。「抑圧的ではないものとして見えるといいなと思っていますし、なんとなく、ほっとしてくれるといいなと希望してますけど。人によりけりだと思うので、難しい人もいると思いますが、できれば1人であの空間に立っていただけるといいかなと思ってはいます」
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展示室にはさまざまなシリーズから選んだ作品が点在し、一体となって想像力を喚起する。繰り返し登場するのは手のモチーフ。接触が忌避されたコロナ下に制作した「CVD19」は、ゴム手袋を着けた手と、〝裸〟の手が触れあおうとするもの。手や足といった身体のパーツを実物大で表した「ヒューマンボディ1/1」は、男性裸体彫刻や影の写真と共に、立体的な造作を使って展示される。

一方、乱雑な都市を乱雑なまま捉えた「カスババ」で、そこに写る人や車は風景の一要素として静止しているのでなく、かといってスピードの体現として用いられているわけでもない。どこからかどこかへ移動するさなか、というふうに見える。揺れ動く影を撮影/採取したシリーズや、被写体が立ち上がる様子を写した「立ち上がれキクオ」にしても、うつろいの状態を捉えていると言えるかもしれない。触れあう手というより、触れようと手を差し伸べること。そんなイメージが広がる。


とるに足らないもの、小さなもの、見て見ぬふりをされているものを捉えることは難しい。それでも手を伸ばそうとすること。鷹野さんの写真は、こうした過程そのもののように思えた。6月8日まで。
2025年3月10日 毎日新聞・東京夕刊 掲載