「神戸の家」(束芋、2024年)の展示風景=山田夢留撮影

 阪神大震災の発生から、17日で30年。前身の兵庫県立近代美術館が被災し、その後、海に面した現在の場所で文化復興のシンボルとして開館した兵庫県立美術館で、企画展「1995⇄2025 30年目のわたしたち」が開かれている。震災からそれぞれ異なる距離に立つ作家たちの表現は、30年前と今、被災地とそうでない場所、被災した人と、していない人をゆるやかにつなぎながら、30年後の今、ここにあることの意味を照らす。

企画展に参加した(右から)束芋さん、米田知子さん、やなぎみわさん、梅田哲也さん、森山未來さん、田村友一郞さん=山田夢留撮影

 トップバッターの田村友一郎さん(77年生まれ)は、会場の入り口から展示室までの長い廊下を、能の橋がかりに見立てた。95年1月17日朝刊のテレビ欄には載っていたが放送されなかった国民的アニメ▽「がんばろう神戸」を合言葉に95年リーグ優勝を果たしたオリックス▽インターネット時代の扉を開いた「ウインドウズ95」--に言及したインスタレーションで、鑑賞者を30年前へと連れて行く。当時の人々はまだネット社会を知らず、ある日突然一瞬にして住む街が崩壊することを想像もしていなかった。

田村さんのインスタレーション「高波」の展示=山田夢留撮影

 続く展示室には、米田知子さん(65年生まれ)が04年に同県芦屋市内で撮影した作品が並ぶ。両岸に集合住宅が建つ川。住宅街の中の空き地。一見してはわからないが、いずれも被災の記憶が刻まれた場所だ。空き教室は遺体安置所として使われていた。米田さんはそこで、子の亡きがらの背中をずっとさすっていた母親の話を聞いた。取り壊しを待つ無人の教室に、カーテン越しの光が差し込む。

 震災から10年を前に、すでに復興を遂げたかに見えていた街で、米田さんは目を凝らした。「私が写したものが窓になって、記憶を風化させないことにつながっていけばと思って撮影しました」。04年のシリーズに続いて、95年、発表の予定なく被災地で撮ったモノクロ写真が展示されている。

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 米田さんは同県明石市出身だがロンドン在住で、被災地に入ったのは3カ月後。あの時あの場にいなかったことへのうしろめたさが、ずっとあるという。神戸市北区在住だった束芋(たばいも)さん(75年生まれ)も、当事者との温度差を感じてきた。記憶の普遍化を目指した本展に「ど真ん中ではない場所で見ていた人の表現で参加を」とオファーを受け、当時の自分や30年の時間と向き合った。

 映像インスタレーション「神戸の家」は、震災時に束芋さん家族が暮らしていた家を上から見下ろす視点で描く。大きな手が現れ屋根を外すと、切り離された2本の指が足のように動いて各部屋を回っていく。何かを確かめるように丁寧で、時には執拗(しつよう)にすら見える指の動き。時々現れる黒い点の塊は、指がやってくるとふっと消えてしまう。

 一口に「神戸」といっても被害の差は大きかった。束芋さんは揺れに跳び起きたが、停電した居間のストーブで「餅でも焼こうとのんきに腹具合のことを考えて」いた。しかしこれは束芋さんの記憶で、姉によると、束芋さんは余震のたびにおびえて泣いていたという。「事実としてあるのは神戸の家が揺れたということだけで、あとは私の作られた記憶。だけどその記憶が、今の私を作ってもいる」

 30年の間には、東日本大震災で友人が行方不明になるという経験もした。自分のことしか考えていない無責任な浪人生だったと、恥じる思いも生まれた。一方でその年、美大に合格し、現在がある。「神戸の家」を制作しながら、「感じたことを丁寧に探る重要性に気付き、あの時の自分を肯定してやることができた」と束芋さん。同時に「脇役」としての視点を意識し、「違う視点がけんかしたり断絶したりするのではなく、まず違うものだと理解して、自分なりの表現を模索した」と話す。

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 最後の部屋に展示された米田さんの新作の中に、震災当日、被災地に生まれた人たちのポートレートがある。希望の象徴としてメディアに追いかけられた当事者の中には、宿命を背負い語り部をする人もいれば、一切の取材を拒否するようになった人もいる。伴侶との出会いや転職を経た人も。「30年というとても長い時間が一番見えるのは、人の成長だと思った」。慎重に言葉を選びながら、米田さんは続けた。「どうしても前に進めない人もいると思う。そういう人たちにも光り輝く瞬間は訪れる。そんなメッセージが入っています」。企画展は3月9日まで。

米田知子「30年目の金原さん」
やなぎさんは2016年から手がける桃の実の写真作品を出品した=山田夢留撮影

2025年1月6日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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