大正期に活躍した早世の画家、中村彝(つね)(1887~1924年)。東京・下落合のアトリエ跡を、今は亡き赤瀬川原平さんと訪れたのは17年ほど前になろうか。当時は塀に囲まれ中は見えなかったが、現在は記念館となり公開されている。さらに新築復元されたものが彝の故郷、水戸市の茨城県近代美術館に建つ。
同館で開催中の「没後100年 中村彝展 アトリエから世界へ」では、病のためアトリエからですら、ほとんど出られなかった彝が、どのように世界とつながり制作していたのか、決して長くはないその画業を約120点の作品や遺品からたどることができる。
旧水戸藩士の家に生まれた彝は、軍人になるべく陸軍幼年学校で学ぶが、17歳で肺結核を患い断念。療養中に水彩画を描き始め、画家を志す。
白馬会や太平洋画会の研究所で学んだ後、文展で初入選したのが「巌」(09年)だ。眼前に迫りくる巨岩。画面のほとんどが岩で埋め尽くされている大胆な構図に、新進の画家の若い勢いが表れているようだ。支援者から水戸徳川家へと渡り、皇室に献上された。長らく御物となっていたため公開される機会の少ない作品という。
彝はレンブラントやマネ、セザンヌ、ピカソなど数々の西洋絵画に影響を受け、画風を変えていった。バラ色に染まる子どものあどけない表情を巧みに捉えた「幼児」(15年)。衣服や枕などの白い布地に、青や黄土色で陰影をつける表現や柔らかな筆致、統一感のある色彩は、並んで展示されているルノワールの「泉による女」(14年)の影響が見える。同作が東京で展示されると聞きつけた彝は、すぐさま滞在していた伊豆大島から帰京した。これまで図版などから想像するしかなかった油絵の具の質感に驚嘆し、絵の前に半日以上もたたずんでいたという。
展示の最後では画帳や書簡などが紹介される。彝は37歳で世を去ったが、作品のほとんどは、それらの資料とともに今に伝わる。彝がいかに多くの人に敬愛されていたかがうかがえる。来年1月13日まで。
2024年12月16日 毎日新聞・東京夕刊 掲載