「(Re)Collection of Togetherness-stage14」の展示=山田夢留撮影

 かすかな空気の動きにも揺れるオーガンジーに、蚊の幼虫が写し出されている。正確には、幼虫から羽化する瞬間の蚊だ。タイトルは「Liminal Death: Assemblage」(生と死のはざま)。何らかの理由で足が蛹殻(ようかく)から抜け出せないままエタノールに漬けられた小さな虫の姿に作者が重ね合わせたのは、母国インドネシアで大虐殺があった1965年以来、行方がわからないままの祖父だという。

「Liminal Death: Assemblage」(2024年)の展示風景Photo: Kenichi Hanada

 バリ島に生まれ育った中国系インドネシア人のアーティスト、ティンティン・ウリアさんの国内初となる個展「ティンティン・ウリア:共通するものごと」が広島市現代美術館で開かれている。ほんの60年前にアジアの一角で起きていた、おぞましい大虐殺。その事実について知る人は、当時も今も多くない。芸術表現へと昇華された凄惨(せいさん)な歴史が、同時代を生きる我々の目を深い闇へと向けさせる。

ティンティン・ウリアさん。左の作品は、シュレッダーにかけた機密文書を用いた「Absence in Substantia,Density」(23年)=山田夢留撮影

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 ウリアさんは72年生まれ。幼少期は「普通のバリ人」を自認して育ったが、二つのバックグラウンドがその後の人生を決定づけた。一つは中国系移民の血を引く民族的マイノリティーであること。もう一つは、祖父が大虐殺に巻き込まれたことだ。

 65~66年、後のインドネシア大統領、スハルト少将がスカルノ政権で起きたクーデターに乗じて共産党排除をもくろみ、関係を疑われた民間人が虐殺された。犠牲者は50万人とも200万人ともいわれるが、ベトナム戦争やポル・ポト政権下のカンボジア大虐殺と違い、現在に至るまで真相解明どころか世界的な認知も進んでいない。

 スハルト政権下の社会や学校で育ったウリアさんも、長く真相を知らずにいた。95年、留学のため国外に出て初めて、歴史の大きな空白に直面。母国では口外を禁じられていた祖父について公に話す決心がついたのは、2000年代に入ってからだった。以来、大虐殺に関するリサーチと、人間が作る境界や境界を巡って繰り返される戦争をテーマにした芸術表現を、並行して手がけている。

 蚊は重要なモチーフの一つ。水中から空中に境界をまたいで変態し、戦争中は陣営間を越境して伝染病の媒介役にもなる。作品の中で複数の意味をまとう蚊の特異な瞬間を捉えたのが、冒頭の「Liminal Death」だ。羽化の途中で時間を止められた蚊は、ウリアさんや家族にとって、依然、生も死も継続中の祖父の存在を想起させたという。

 世界の各地で形を変えながら展開するインスタレーション「(Re)Collection of Togetherness-stage14」にも、蚊は登場する。黒い雲のようなワイヤメッシュからつるされた手製パスポート。そのページには潰された蚊と血の跡が残る。

 境界を越える自由を保障することもあれば、制限することもあるパスポートとそこに残された血痕は、自ら選ぶことのできない帰属や国籍の問題を浮き彫りにする。パスポートはすべてつながっており、一つが落ちれば全てが落ちる構造。地理や国の大小には関係なく、表紙の色のグラデーションで並ぶ。

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 大虐殺の背後には、反共を掲げるスハルトを支持していた米国の存在も指摘されている。ウリアさんは米国の公文書を調査し、虐殺が始まる65年10月1日前後に米大使館に送られた国家機密扱いの電報が集中していることを発見。研究の一環で制作した作品では、取り寄せた文書をシュレッダーで裁断して編み込み、アートとして提示した。

 なぜアートなのか。「学問では『1』は『1』しか意味しないが、アートなら異なる背景を持つ人たちが見て、それぞれの考えを持って会話することで1以上になる」とウリアさんは言う。企画した角奈緒子学芸員も「感情を刺激するというアートの性質を通して、過去から今、未来の世界を考えることができるはず。美術館はそういう場所でもあり続けたい」と話す。

 世界では今も戦争が続き、日々新たな加害者と被害者を生んでいる。テキストとドローイングで構成する「Memory is Frail」(記憶は脆弱(ぜいじゃく))シリーズの最新作でウリアさんは、さまざまな意味での「距離」を考えたという。イメージの代わりに手描きされたQRコードは、65年前後の米国の機密文書や東京裁判、ニュルンベルク裁判などについてのサイトへと鑑賞者を導く。展覧会は来年1月5日まで。

奥の壁に展示されているのが「Memory is Frail(and Truth Elsewhere)」(2024年)。手前は「Invasion」(08年)。たこに用いられているのは中国系インドネシア人として差別的な規制を受けてきたウリアさんの家族の法的身分証明書だ=山田夢留撮影

2024年12月9日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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