長野県上田市にある「無言館」といえば、訪れたことがない人でもどのような場所か、どのような絵がある場所か、何となく知っているだろう。館名に「戦没画学生慰霊美術館」と付されている通り、太平洋戦争で「戦没」した「画学生」の絵や彫刻が展示されていると言われる。数々の作品は、なぜ集められ一堂に展示されるようになったのか。何重にもくるまれた物語を一枚一枚そっとはがして、稀有(けう)な美術館を見つめ直す展覧会「無言館と、かつてありし信濃デッサン館-窪島誠一郎の眼(め)」が静岡県立美術館(静岡市)で開かれている。
二つの美術館は窪島誠一郎さん(83)の存在なしにはありえなかった。スナック経営などを経て、1979年に夭折(ようせつ)した画家たちの作品を中心に集めた「信濃デッサン館」(2018年閉館)を設立。次いで、97年に無言館を開いた。その経緯はよく知られている。画家の故・野見山暁治が、NHKの番組で70年代半ばに東京美術学校(現東京芸術大)の同級生らの遺族と対面し、その記録は本『祈りの画集』として刊行された。さらに約20年後、美術館をつくりたいと思い立った窪島さんに野見山が協力して開設の運びとなった。
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本展でまず対面するのは、画学生らの自画像である。ほとんどが青年らしい風貌で、鑑賞者は自分が見つめられているように感じる。志半ばで亡くなった人たちと知っているから、いっそう存在と人生を意識させられる。
次いで、彼らが残した絵や言葉が並ぶ。日常で目にするような何気ない光景を描いた絵の近くには、43~49年の野見山の絵もある。画学生と変わらない若描きの作品に、彼らが長生きしていたら野見山と立場が変わっていたかもしれないと思わせる。その野見山も昨年亡くなった。
鮮やかだったのは第5室。小磯良平や藤田嗣治の「戦争画」(いずれも東京国立近代美術館、米国より無期限貸与)と、日高安典ら画学生が戦争を描いた作品(無言館)、松本竣介や麻生三郎が戦中に描いた作品も合わせて展示される。さらに東京国立近代美術館と無言館をつなぐように、靉光(あいみつ)(石村日郎)の巨大な絵と小ぶりの静物画も並ぶ。
戦地でも絵筆を握った画学生もいれば、日常の風景から戦争を描いた画家もいた。大画面の「戦争画」を通じて、自分の創作を実現させた画家もいる。画家、戦没画学生、夭折の画家といった前置きをいったん外して、この時代に何が描かれたか見てみようと誘いかける。
企画した木下直之館長は「どういうふうに忘れられかけていたものに光が当たったのか、丹念に追うとおもしろい」と話す。「例えば『戦没画学生』という言葉は誰が使い始めたのか。なかには42歳で死んで、とうに『学生』ではない人もいた。一人一人異なる戦争体験も見ていかないといけない」
『祈りの画集』の帯には「『きけわだつみのこえ』美術版」とある。手記『わだつみ~』が刊行された49年、『祈りの画集』の77年、無言館が設立された97年では戦争体験の受け止め方も違っただろう。同じNHKの企画では市民が描いた「原爆の絵」の収集(74年~)も大きな反響を呼んだ。戦争体験と絵の関係も背景にあるだろう。あるいは、なぜこの展覧会場には男の絵描きしかいないのか。大きな物語は魅力的だが、確かに、無言館を巡っては、考えないといけないことは、まだまだある。
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最後の第6室は「窪島誠一郎の眼」と名づけられている。「自己顕示だけがつよく」「噓(うそ)つき」などと称し、露悪的に振る舞う窪島さんだが、デッサン館の前の時代から既に「生きている表現者たちに活動の場を提供することと、亡くなった芸術家たちの活動の証を記録すること」を思い描き、多目的ホールや画廊、美術評論誌を運営・発行していたという。村山槐多(かいた)に強烈にひかれて夭折の画家のデッサンを集め始め、無言館の設立に当たっては遺族を回って心が動いた絵を預かった。そこには、やはり、窪島さんの選択する眼があったのだ。
「『遺品』を『作品』として集め、社会の共有財産にした、その意味は大きい」。そう木下館長は言う。窪島さんが言うところの「純個人立の美術館」は、ひるがえって公立美術館のありようを照らす。図らずも公的な意味を帯びた無言館。では、公立美術館は、何を実現すべき美術館なのか。美術館について問い続けてきた館長らしい問いかけでもある。12月15日まで。
2024年11月25日 毎日新聞・東京夕刊 掲載