鉛筆で塗り込めた半円と深い緑の三角形が作る幾何学的構成に、紫のふくらみが重なる。パリ在住の美術家、松谷武判(たけさだ)さんの「丸い丘」(2023年)は、その作品世界を凝縮しながら、新たな表現も垣間見える最新作だ。戦後の前衛芸術家集団「具体美術協会」からパリへと拠点を移して、もうすぐ60年。米寿を目前に今も日々新たな美を求め、創造を続ける作家の過去最大規模の個展が、東京オペラシティアートギャラリー(東京都新宿区)で開かれている。
200点を超える作品や資料で、60年余にわたる活動の全貌をひもとく。具体時代のレリーフ作品や、パリで確立した鉛筆の作品といった代表的なシリーズはもちろん、これまであまり紹介されることがなかった移行期の作品も展示。見えてくるのは変化の中でも一貫する、作家の心象だ。
1937年、大阪市生まれ。14歳で結核を患い、8年の闘病生活を強いられた。最初の部屋に展示されている59年の2作品には、全快の喜びで万歳する人の姿が抽象化して描かれている。この頃、具体と出会い、63年入会。リーダー・吉原治良(じろう)の「誰もやってないことをやれ」という言葉を受けてたどりついたのが、発売間もなかったビニール系接着剤「ボンド」だった。
本展では20点近い具体時代の作品が一堂に会する。一口にボンドを用いたレリーフといっても、丸い膨らみが規則的に並ぶもの、不規則に配置されたもの、切り開かれたものや着色されたもの、二重に張った膜を切り開いたものなど表現は多彩。膨らみは徐々に大きくなり、「作品66-2」(66年)では画面いっぱいの丸い膜の縁と、中にしずくのような膨らみを作った。この作品で毎日美術コンクールグランプリを受賞。渡仏の機会を得、パリへと渡る。
鉛筆で「時間を塗り込める」スタイルを確立したのは70年代後半。本展ではその過程もつぶさに追う。これまでほぼ紹介されたことがないというのが、小さなスペースに並ぶ70年代の小品だ。表現されているのは、いっぷう変わったイメージの数々。柔らかいものと固いものの組み合わせは、具体時代からの官能性を引き継ぐ。「作家の中に取りついている観念や生きる波動みたいなものを冗舌に伝えたいという気持ちがあったのではないか」と福士理・学芸課長。試行錯誤を経て、黒の時代は幕を開けた。
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パリの第一印象は「この街は危険だ」だったと松谷さんは言う。「ショーウインドーを見てたらあまりにもきれいで、これに引っかかったらえらいことになるぞと。絵描きやからね」。一方で母国を遠く離れ、「美とは何ぞや」という問いに一人、向き合う時間と場所をくれたのも、パリという街だった。
ある日、小さなアトリエの机に1枚の紙と鉛筆を置き、自らと問答した。「お前なら一からどうするか。詩は書けない。物語も書けない。塗るしかないでしょ」。6Bの黒い鉛筆で塗り込めた幅10㍍の作品は、日仏両国で評判を呼んだ。
本展には82年の作品が出品されている。塗った後に揮発油を流すことで、埋め込んだ過去の時間だけでなく、未来への流れも表現。近づいてみると、あらかじめ紙をひっかいておいた線が白く残るなど、細かな表情の違いに気づく。アトリエの机の幅だという縦の線が、作家の生きた時間を映す。
黒の作品は、ボンドを膨らませたり垂らしたりした上を塗り込めるレリーフへと展開。鉛筆による黒は鈍く光り、膨らみが独特の陰影を作る。福士さんは「真っ黒といっても見る角度によって異なるし、近づくとまた少しずつ違うテクスチャーがあってハッとさせられる。向き合うと語りかけてくれるような作品だと思う」と話す。
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2017年、ベネチア・ビエンナーレの企画展でインスタレーションを発表。19年にはポンピドーセンターで個展が開かれるなど、近年改めて国際的評価が高まっている。「より自由に、こだわりなく、それでいて『松谷度』が上がっている」と福士さん。最終章には冒頭の作品をはじめ、20年代の作品が並ぶ。
「イメージが枯れることはない」と、松谷さんは今も毎日、パリのアトリエで制作に向かう。「アトリエは試作でいっぱい。新しい美が生まれたら、自分も感動しますよ」と話す声が弾んだ。展覧会「松谷武判」は12月17日まで。
2024年11月18日 毎日新聞・東京夕刊 掲載