
「かつて一色に十年と思っていたが、この頃は一色に一生と思っている」。志村ふくみさんの100歳を記念する展覧会は、この言葉から始まる。染織家で紬織(つむぎおり)の重要無形文化財保持者、文化勲章受章者。草木で自ら染めた糸で織る詩情豊かな作品は、多くの人を魅了してきた。作品とともに人々の心を捉えるのが、随筆家としても知られる志村さんの言葉。故郷の滋賀県立美術館で開催中の「生誕100年記念 人間国宝 志村ふくみ展 色と言葉のつむぎおり」では作品と言葉が響き合い、深く豊かな世界を織りなす。
「夏の間中、その一瞬の幻影を思いつづけていたのか、秋に近い頃、ひとつの衣を織り上げた。(中略)『叢(くさむら)やなぁ』と母が言った。私は何となく、『すずむし』と呟(つぶや)いた」(「織と文」)
緑の濃淡が草むらや竹やぶを思わせる「鈴虫」(1959年)は初期の代表作。傍らに掲示された文章には、染織の道へと導いてくれた実母・小野豊(とよ)と庭を眺めながら交わした会話が、詩的な表現でつづられている。作品のイメージが文章で膨らみを増し、晩夏のにおいや音までが感じられるようだ。

「秋霞(がすみ)」(59年)には「つなぎ糸が自由にそうなりたい姿になって入ってゆく。私はただ手を動かしている」(「ちよう、はたり」)との言葉が並ぶ。「つなぎ糸」は近江商人の質素倹約の気質を感じさせる伝統で、短い糸を結んで再利用する技法。草木染を植物の「色をいただく」「命をいただく」と表現する作家の制作姿勢が、垣間見える文章でもある。
■ ■
冒頭の言葉は、大佛次郎賞を受賞した初の著作「一色一生」の知られた一文。山口真有香主任学芸員は「展覧会を準備中、豊かに広がった世界観が迫ってくるように感じた。染織の世界と言葉の世界を同時に味わうことで、見えてくるものの奥行きが何倍にもなると思う」と話す。
志村さんは55年、生まれ故郷の近江八幡で染織家としての道を歩み始め、68年、京都・嵯峨野へと工房を移した。展示前半は時系列の章立てで、後半はその作品世界を特別なものにしている二つのテーマに迫る。一つは文学。陶芸家・富本憲吉から工芸とは別のことも勉強するようアドバイスを受けた志村さんは、小さい頃から親しんできた文学の世界を掘り下げていく。
本展で取り上げるのは、90年代からライフワークとする「源氏物語シリーズ」。工房近くに光源氏のモデルとされる源融(みなもとのとおる)の墓所があり、より身近に感じたという物語の世界を、研究者のもとにも通ってひもといた。グリーンの「葵(あおい)」(99年)、ピンクの「花散里(はなちるさと)」(2002年)。みずみずしい色彩が並ぶ中、中でもこだわったのが紫という。日本古来の格式高き色に物語の神髄を見た志村さんは、「夕顔」(03年)、「若紫」(07年)などを織り上げた。

■ ■
もう一つのテーマは琵琶湖だ。2歳で叔父の養女となり近江八幡を離れた志村さんが、自らの出生について知ったのは17歳の時。20代で慕っていた兄で画家の小野元衞(もとえ)をみとり、独り身となった30代にはここで人生の再スタートを切った。実際に暮らした時間は長くはないが格別の思いがこもる琵琶湖を「私の原風景」と語り、京都に移ってからも、制作に行き詰まるたびに足を運んだ。
「湖上夕照(せきしょう)」(79年)は濃紺地に朱や茶を織り込み、琵琶湖に映える夕日を表現した作品。本展の準備中、「原点」について尋ねられた志村さんは、長女で染織家の志村洋子さんに「あなたと一緒に出かけたじゃない」と、ある思い出を挙げたという。
洋子さんによると、それは60年ほど前。夕日を見ようと豊、志村さん、洋子さんは舟に乗った。沖へこぎ出すうち、夕日が比叡山系の山並みへさしかかると、割れた光が湖面に降り注いだ。3人ともが言葉を失ったという一瞬を閉じ込めた一作。そこには「私の心の永遠の姿」が表現されている、と志村さんはいう。
とどまるところを知らない人間の営みが、地球規模での環境変化をもたらす現代。「私の生きた一世紀と、次の一世紀を思うとその違いに慄然(りつぜん)といたします」。本展に寄せた文章に、志村さんは自然への畏れをにじませた。「琵琶湖を藍甕(あいがめ)に例えるなら、この先も美しい色彩がそこから生まれ出ることを祈って止(や)みません」。前期展示は27日まで、後期は29日~11月17日。11月21日には東京・大倉集古館でも100歳を記念する展覧会が始まる。

2024年10月21日 毎日新聞・東京夕刊 掲載