画面いっぱいに構成される奇抜なモチーフ、あふれる極彩色が洪水のように押し寄せてくる--鮮烈な作風で知られるアーティスト、田名網敬一さんが8月9日、88歳で亡くなった。その2日前から、東京・六本木の国立新美術館で、60年以上にわたる創作活動の全貌に迫る初の回顧展「田名網敬一 記憶の冒険」展が始まったばかりだった。近年、急速に再評価が進む田名網さん。その歩みを紹介する同展には、病に倒れる直前まで制作にいそしんでいたという田名網さんのエネルギーと不屈の精神が宿っている。
田名網さんは1936年、東京・京橋に生まれた。武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大)に入学し、予備校時代に知り合ったという篠原有司男さんら前衛美術家と交流を深めながら、デザイナーとしてのキャリアをスタートさせた。75年には日本版月刊『PLAYBOY』の初代アートディレクターに就任、斬新なグラフィックデザインで注目を集める。一方で、絵画やコラージュ、立体作品、アニメーション、映像、インスタレーションなどジャンルにとらわれることなく、精力的に制作を続けてきた。
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田名網さんの作品に色濃く影響しているものがある。子どものころに経験した戦争の記憶だ。空襲を避け身を寄せた祖父宅の防空壕(ごう)から見た光景は、田名網さんの脳裏にトラウマ的に深く焼き付いた。
ごう音を響かせ飛んでくる爆撃機B29、投下された焼夷(しょうい)弾で火の海と化した街、逃げ惑う群衆。燃えさかる炎のような真っ赤なトサカの鶏、そして照明弾の光を受け怪しく輝きながら水槽を泳ぐ金魚。
とりわけ金魚は繰り返し描かれている。平面に限らずアニメーションにも、立体にもなっている。75年に初めて作品に描いたといわれ、2000年以降は人面魚、さらには人間と魚が一体化した姿へと形を変えていく。
担当した国立新美術館の小野寺奈津・特定研究員は「通史的に見られるモチーフです。今回は回顧展なので、一つの時代だけでなく、そうしたモチーフの変遷も見ることができます」と話す。
戦後に流入したアメリカ大衆文化の影響も見逃せない。少年期、映画館に毎日のように通いつめて見た西部劇やアニメ映画は憧れの対象でありつつも、〝敵国〟だった国の文化という複雑な感情をもたらした。アニメーションやコラージュなどに描かれるアメコミのヒロインや裸の金髪女性は戦争の記憶と重なり合い、美と恐怖を象徴する。
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81年に田名網さんは結核で4カ月近くの入院を余儀なくされた。生死をさまよい、薬の副作用で毎晩、夢や幻覚にうなされる日々を過ごした。サルバドール・ダリが描いた絵画の風景が登場したり、病院の庭にあった松の木がぐにゃぐにゃとゆがんで見えたりしたという。田名網さんはこれらの経験をノートに書きとめ、創作の糧とした。
画面の中央に表れる、意思を持っているかのように激しくうねる松の造形は、幻覚のイメージに基づいている。田名網さんにとって「生命力の象徴」であり、80年代から最近の作品にまで頻繁に登場するモチーフとなった。
20年代以降の作品によく描かれるようになったのは橋だ。葛飾北斎の浮世絵や、幼少期の記憶に残る赤い太鼓橋のイメージが重ねられた橋は、死後の世界や異界との境界の象徴でもある。しかし単純にこの世とあの世を真っすぐにつなぐものとしては描かれず、1回転したり、急角度だったり、渡れない橋になっていたりする。「この世界にいる限りはあちらの世界には行けないと、先を完全に描くことはできなかったのではないか」と小野寺さんは語る。
本展では、橋をモチーフにした新作のインスタレーション「百橋図」(24年)と、対になる屛風(びょうぶ)形のコラージュをプロローグとして、初期作を紹介する第1章へと巡っていく。あたかも、田名網さんの記憶という〝別世界〟へと招き入れられるかのように。
今回、11の章とプロローグ、エピローグで500点を超える作品が展示されている。しかし、田名網さんは、展示プランの模型を作った際、「その模型がこれまでの縮図のように思えて『自分の人生は結局、これだけだったのか』と感じてしまった」と言ったという。決して「これだけ」ではない。本展には、田名網さんの人生の記憶がたっぷりと詰まっている。11月11日まで。
2024年10月7日 毎日新聞・東京夕刊 掲載