うなだれていたり、何かにもたれかかっていたり。どこか郷愁漂う「ビーチ」に点々と立っているのは、南国の青い空が似合うヤシの木、というよりは、人生の悲喜こもごもを背負った人間たちのようだ。大阪・国立国際美術館で開催中の「梅津庸一クリスタルパレス」展(10月6日まで)。600点近い作品が埋め尽くす会場には、「つくること」と向き合い続けてきた作家の濃密な時間が満ちている。
梅津庸一さん=写真=は1982年生まれ。日本の美術制度や歴史に言及した自画像で知られ、近年は陶芸や版画へと展開。展覧会の企画に批評、私塾やギャラリー運営も手がけ、本展と同時期には企画を務めた「梅津庸一 エキシビションメーカー」が、東京・ワタリウム美術館で開催された。今春開かれた国立西洋美術館初の現代美術展には、梅津さんと、主宰するグループ「パープルーム」の両方で参加するなど、注目を集める気鋭の美術家だ。
5章構成の本展では、小学6年の頃の絵に始まって、来年当地で開催される大阪・関西万博にまで手を伸ばす。「20年の仕事をすべて見せることを目指した」と主任研究員の福元崇志さん。と同時に、「一人の人間のものとして捉えきるのが難しいぐらい多種多様な仕事を、整理して説明することは意図していない」とも話す。
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山形県出身の梅津さんは、東京造形大卒業後、「フロレアル(わたし)」(2004~07年)でデビューした。「日本近代洋画の父」黒田清輝の師であるラファエル・コランの同名作を引き、裸婦を自身に、野外を6畳一間の室内に置き換えた自画像。「智・感・情・A」(12~14年)では黒田作品を参照し、美術史と個人史を重ね合わせながら、自らがよって立つ美術制度や教育のゆがみへの批判を形にした。
13年には美大批判を実践に移した私塾「パープルーム」を開設。一方でアートマーケットへの違和感から、「絵で食べることは諦めて、いったん仕切り直したい」と所属ギャラリーを離れ、介護施設で夜勤のバイトを始めた。真っ白な壁で区切られたスペースに並ぶのは、当時カバンにしのばせ、休憩時間に描いていたという水彩画だ。「あえておしゃれなアートフェアみたいな空間に」並べたという作品には、「今までの自分の造形言語が、小さな画面だが複雑に折りたたまれている」と話す。
知識も経験もない陶芸を始めたのは19年。「現代アートに失望」し、21年には滋賀・信楽(しがらき)へ「疎開」。作陶に没頭する中で「長らく使っていなかった想像力の回路」が復活する手応えを得、「つくること」と出合い直したという。不思議な形をした「花粉濾(こ)し器」は、冒頭の「パームツリー」同様、現在まで作り続けているシリーズ。左右非対称の円形はコンプレックスでもある自身の「蒙古斑(もうこはん)」で、「自分の意思とは関係なく空気中を漂い、どこに行くかはわからないがどこかには届く」花粉ともども、梅津作品のキーワードだ。形を変えた自画像は、割れたり曲がったりしているものも平等に、展示台に並ぶ。
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信楽でも、その目は自らがよって立つ場所に向いていった。窯元に陶芸用品メーカー、そこで働く工人たち。制作に欠かせないのに、「美術」の中では「いない」ことにされる彼らの存在が、梅津さんに「芸術と産業」という新たな視点を与えた。昨年からは工房と協働した版画制作を開始。版画の展示スペースでは、何百枚も刷ったリトグラフを壁紙にして作品をかけ、「フレームの中と外を等価値」にしてみせている。
最終章「パビリオン、水晶宮」では「絵画史と無縁ではないのに、今の現代美術界は無関心な人が多い」と万博に言及。高所作業車に乗って壁画を描き、長年追いかけているビジュアル系バンドと作った本展オリジナル曲を大音量で流し、最後には展覧会の施工担当者のインタビュー映像まで詰め込んだ。開幕直前までかかったという設営作業を通して「梅津さんのことがさらにわからなくなってしまった」と漏らした福元さんは、こう続けた。「一人の作家をじっくり紹介しながら、捉え損ねる中からこれからのありようを想像させる。そういうことが美術館で、展覧会で、いかにして可能か。人の理解という暴力からどう逃れるかが梅津さんの特徴だとしたら、理解しがたさは肯定的に捉えるべきものだ」
2024年9月9日 毎日新聞・東京夕刊 掲載