「光-台湾文化の啓蒙と自覚」で展示された「甘露水」=黄邦銓、林君昵撮影、北師美術館提供

 大正時代、台湾人で初めて東京美術学校(現・東京芸術大)に入学した彫刻家の黄土水(こうどすい)(1895~1930年)。その代表作である彫像「甘露水」(1919年)が母校、東京芸大に里帰りした。「台湾のビーナス」とも称される傑作は、戦後の台湾で姿を消し、幻の存在となっていた。その「発見」に尽力した台北教育大北師美術館創設者で総合プロデューサーの林曼麗(りんまんれい)氏が、その秘話を毎日新聞に語った。

黄土水=雑誌「台湾教育」(1920年)から

 黄は台湾の日本統治が始まった1895年、台北に生まれた。台湾総督府国語学校(現・台北教育大)で木彫の才能を認められ、1915年、台湾人で初めて東京美術学校彫刻科木彫部に入学した。高村光雲に師事しつつ、自ら西洋の大理石彫刻を学んだ。

 黄は故郷の「台湾」を強く意識し、作品に込めていく。台湾を自らのアイデンティティーに結びつけ、芸術で表現した先駆的な存在となった。

 20年、第2回帝展で台湾先住民の少年像「蕃童(ばんどう)」が入選した。台湾人初の快挙だった。

 今回公開される「甘露水」は、翌21年の第3回帝展での入選作品。大理石の彫像で、裸身の女性が大きな貝がらを背に立つ姿から「台湾のビーナス」とも称される。顔を上げて胸を張り、りんとした姿だ。林氏は「手足が長くて細身の西洋的な女性像ではなく、たくましい体つきで、とても台湾らしい。『甘露水』は仏教の言葉。皆を幸せにするという思いを込め、自らの心に内在する台湾への思いを形にしたと思う」と評する。

 黄は計4回帝展に入選し、天才彫刻家として名声を得る。皇室や政財界の有力者からも制作依頼が相次いだ。

 だが30年、「水牛群像」制作中の無理がたたって35歳の若さで病死した。死後、作品は台湾に運ばれたものの、甘露水は戦後しばらくして行方不明になった。

 台湾では近年、台湾を主体と考える台湾アイデンティティーの広がりを背景に、台湾美術の研究が盛んになっている。台湾近代彫刻のパイオニアである黄の傑作は欠かせない存在だ。林氏は幻の甘露水を捜した。「誰も所在を知らず、私も写真でしか見たことがなかった」。中部・台中の外科医だった故・張鴻標(ちょうこうひょう)の家にあるのではないかとのうわさを聞きつけ、張家に接触を試みたが、会うことさえできなかった。

 ◇「少女」公開でブーム

 転機は2020年、台湾近代美術を一堂に集めて紹介する展覧会「不朽の青春 台湾美術再発見」が、台北市の北師美術館で開催され、黄の胸像「少女」(原題「ひさ子さん」)が公開されたことだった。

 少女が着物の上にストールをかけた姿で、ふっくらしたほおから初々しさが伝わる。1920年、東京美術学校の卒業作品だ。林氏によると、黄が発表後、母校の大稲埕(だいとうてい)公学校(現・太平国民小学校)に寄贈したという。ずっと一般公開されないままだったが、林氏が「修復して展示後は必ず学校に返す」と約束して学校側を説き伏せ、100年後の展示が実現した。「少女」は大反響を呼び、黄土水ブームが起きた。

黄土水の胸像「少女」=台北市の太平国民小学校で1月16日、鈴木玲子撮影

 「次は甘露水を」。翌2021年は甘露水の入選から100年の節目の年。林氏はさまざまなルートを通して再び張家に接触を試みた。

 21年4月30日午後3時半ごろ、台中でついに鴻標の長男・士文氏と四男・士立氏に会うことができた。士文氏が開口一番に告げた。「あなたは何も言わなくていいです。甘露水を国家に返還します。条件はありません」。そして林氏の手を握り、「長いことお待たせしました」と声を震わせた。士立氏は「天国の父と母に報告します。今晩からやっと安心して眠れます」と続けた。重要な彫像を持っているという重圧から解放される安堵(あんど)感からだった。

 5月6日午後4時7分、台中郊外・霧峰のプラスチック工場にあった大きな木箱が開けられた。甘露水が入っているというが、実は74年に封印されてから47年間、誰も中を見ていない。林氏は北師美術館のチームや張家の人々と共に固唾(かたず)をのんで作業を見守った。ふたが開き、ボロボロの麻布とビニールで巻かれていた。

2021年5月6日、「甘露水」が眠っていた木箱を開け、姿を現した瞬間=黄邦銓、林君昵撮影、北師美術館提供

 顔が見えた。薄めに開いた瞳。ひどく汚れてはいたものの、美しく気高い顔立ちに感動し、しばし言葉を失った。台座を含め像の高さは175㌢あったが、どこも破損していなかった。99年に中部を大地震が襲っていただけに、まさに奇跡だった。喜びもつかの間、林氏は「早く美術館に運んで修復しなければと思うと、今度は私が心配で眠れなくなった」と明かした。

2021年5月6日、木箱が開けられ、姿を現した瞬間の「甘露水」=黄邦銓、林君昵撮影、北師美術館提供

 暗闇の中から「発見」された甘露水。だが、なぜ張家の手にあり、封印されていたのか。そこには台湾の激動の歴史が大きく絡んでいた。

 ◆台湾史の奥深さ刻む 独裁下に放置、守り続けた一家

 1945年、日本の敗戦後、台湾は中国大陸から渡った国民党政権が統治した。黄土水(こうどすい)の死後、台湾に運ばれた甘露水は台北市の台湾教育会館(現・二二八国家記念館)が所蔵していたが、戦後、建物は台湾省臨時省議会に替わった。議会は58年に台中への移転が決まり、4月に建物内の文物が台中に運ばれた。ところが、甘露水は台中駅前に放置されてしまう。

 林曼麗(りんまんれい)氏はその事情をこう推察する。国民党政権は、日本統治時代の社会や文化を否定し、公の場で日本語の使用も禁じた。日本時代の芸術は顧みられることはなかった。ましてや甘露水は女性のヌード像、当時は裸体を敬遠する人もいた。黄のことを知らず、価値も分からぬまま、捨てられたのではないかという。

 窮地を救ったのが外科医の張鴻標(ちょうこうひょう)だった。

 野ざらしになった彫像は、一部がインクで汚されていた。甘露水に気づいた鴻標は無残な姿に心を痛めた。親戚の運搬業者のトラックで重さ約500㌔の彫像を、駅近くにあった自身の外科診療所に運んだ。鴻標は自ら絵画や彫刻を制作するほど芸術への造詣が深かった。鴻標の親戚には、東京で黄と同じ台湾人留学生宿舎「高砂寮」に暮らし、後に黄について書いた知識人の張深切がいた。黄と不思議な縁でつながっていた。

 彫像は張家のダイニングに置かれ、世間からは姿を消した。鴻標の子どもたちは「お姉さん」と呼んでいたという。長男・士文氏は学生のころ、美術雑誌で「お姉さん」の写真を見て、初めて重要な彫像だと知った。その文章には「行方不明」と書かれていた。

 国民党政権は独裁体制を強め、反体制派とみなした者に対する無差別逮捕や処刑を行った。「白色テロ」と呼ばれた弾圧が吹き荒れる中、日本絡みの作品を持っていると危険が及ぶ恐れがあった。それでも鴻標は守り続けた。

 だが74年、病を患った鴻標は自分亡き後を案じた。霧峰で工場を営む親戚に頼み込み、彫像を木箱に入れて工場の片隅に隠した。そのことは経営者夫婦しか知らない。鴻標は2年後に死去した。

 家族によると、鴻標は生前、適切な時期が来たら返還しようと考えていたようだという。鴻標の死後、彫像の重要性を理解するほど、表沙汰にするのを恐ろしく感じた。そして適切な時期とはいつなのかを考え続けた。

 87年の戒厳令解除後、台湾は民主化へとかじを切る。自由で人権が保障された社会へと転換した。士文氏らきょうだい6人は、2020年の展示会で黄作品に対する熱狂ぶりを見て、「ついに返還する時が来た」と話していたという。

 木箱を開けてから5日後の21年5月11日、北師美術館に運んだ。台湾では新型コロナウイルス感染が拡大。搬送から数日後、コロナ対策で公共機関の利用制限などが強化された。「一歩遅ければ搬送できなくなっていたかも。ギリギリでした」と林氏は話す。

 修復作業は日本人の森純一氏が担当した。黄の「少女」像などの修復も手がけていた。林氏は「彫り方は驚くほど繊細。汚れを落とすのに強い薬剤を使うと白くなりすぎて、その繊細な魅力が損なわれてしまう。弱い薬剤を顔にパックするように、薄く張って汚れを丁寧に取り除いた。毎日パック、パック」と明かす。半年がかりで修復した。

 ◇23年、「国宝」に指定

 最初の公開は21年12月、北師美術館で開催された展覧会「光-台湾文化の啓蒙(けいもう)と自覚」だった。100年前に台湾の知識人たちが結成し、社会運動をけん引した組織「台湾文化協会」とその時代の芸術を紹介した。

 甘露水は、館内に降り注ぐ自然光の中に置かれた。周りを黄と同時代の芸術家たちの作品が囲んだ。「半世紀近く暗闇の中にいたのだから、絶対に自然光の中に置きたかった。皆に囲まれて。光の中で見たら、彼女の顔は喜んでいるように見えた」。奇跡の「発見」からわずか2年後の23年、「国宝」に指定された。

 甘露水が帝展に入選した1921年は、台湾の社会運動にとって非常に重要な年だ。近代高等教育を受けた台湾の若者らが、台湾人の権益を求めて声を上げた。圧倒的に人口が多い台湾人が経済、教育など多方面で差別的な待遇を受けていたからだ。例えば、公共機関で働く台湾人は日本人より少なく、報酬額は低く、昇進もままならなかった。

 21年、知識人の林献堂(りんけんどう)らが日本の帝国議会に対し、台湾独自の議会設置を求める「台湾議会設置請願書」を提出した。台北では知識人の蔣渭水(しょういすい)が提唱し、献堂が先頭になって「台湾文化協会」が発足した。協会は議会設置請願運動をけん引していく。黄がいた東京の高砂寮では、留学生らが盛んに討論会を開いた。黄は、他の留学生たちとは距離を置いて制作に没頭していたが、黄の入選は留学生らを大いに鼓舞した。

 黄は台湾への思いについて雑誌「東洋」への寄稿「台湾に生れて」(22年)で、こう記している。「その国に生れてその国を愛し、その土地に生れてその土地を愛するは、人情である。芸術に国境なく、何処(どこ)でやっても同じ筈(はず)ではあるが、矢張(やは)り自分の生れた土地が懐しい。我が台湾は美しい島であるから特に懐しい」

 制作に没頭するあまり体を壊して早世した黄について林氏は「天才であると同時に大変な努力家。芸術のために命まで尽くした」と惜しむ。

 甘露水は、東京芸術大学大学美術館で6日から始まる「黄土水とその時代--台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」で展示される。「日本人が台湾の奥深さを知る機会になってほしい」。林氏は期待を込める。

林曼麗氏と「甘露水」=邱劍英撮影、天下雑誌提供

2024年9月5日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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