本紙では、通常巡回展は一度しか取り上げない。美術館によって見え方が変わることは承知しつつ、「ほぼ同じ」と見なすからだ。今回紹介するのは、青森県立美術館で開催中の「鴻池朋子展 メディシン・インフラ」で、いちおう本展も、巡回展だ。だが、以前取り上げた高松市美術館(2022年)、静岡県立美術館(22~23年)とは会場の景色が全く異なり、以前は展覧会名にあった「みる誕生」という言葉も消えていた。
まず、広々とした「アレコホール」に足を踏み入れると、全国の美術館から借り集めた車椅子が集合していた。誰が乗ってもよいとはいうものの、乗り慣れない人が乗ればその場でくるくる回ってしまう。シャガールがバレエ公演のために制作した巨大な絵の前で回る人たち。そのなかから、車椅子を乗りこなして展示室の方へ進んで行く人が現れる。
最初に入った「肺」の部屋は生き物の気配に満ちていた。天井からつるされたオオカミの毛皮が速度をつけて回転しはじめ、高い天井で振り子が揺れる。〝キツネ〟もいれば、〝つりざお虫〟もいる。下を見れば、土間ふうの床を掘った穴にはツキノワグマのふん(模型)まであった。
会場の景色が違うと言ったが、一貫している点もある。個展なのに、作者以外の手がたくさん入り込んでいることだ。
「戦争と詩のカーテン」や「物語るテーブルランナー」は物語る人、縫う人がいてできた。あちこちにある毛皮は他の人から分けてもらったものだし、これまで関わった人たちによる小展示「プロジェクトラボ 新しい先生は毎回生まれる」の部屋もある。もう一つの会場である国立ハンセン病療養所「松丘保養園」(青森市)では、同園で暮らしていた成瀬豊さん(1922~2013年)や、同「菊池恵楓園(けいふうえん)」(熊本)の絵画クラブ「金陽会」による絵などが、作家の作品と共に展示されている。
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鴻池朋子さんは1960年、秋田県生まれ。物語をはらんだ映像作品や、身体性を意識させる作品で知られるが、近年の特徴は他者との関わりにある。
では、鴻池さんにとって、他者はどのような存在なのだろう。作品をつくり美術館で発表することが息苦しくなっていたころ、さらに、東日本大震災が起きたという。「自分のなかには何もなくて、何もないのに生み出さないといけなかった」。そのときにすがるように出会ったのが人の手や言葉だった。
だが、他者が介在すれば自分の「作品」が変わる。それが受け入れがたい人もいるだろう。尋ねると、東京芸術大を出た後、玩具会社で働いていたときのことを挙げた。隣に座る先輩や同僚が鴻池さんのデザインに赤を入れる。最初は驚いたが、修正後のラインに「これだ」と思った。1人が思い描いたデザインを探り、みんなでよくしていく。「個人で絵を描くのとはまるで違う。デザインのチームワークの不思議さを知りました。ものをつくるって面白いと、初めて思ったんです。芸大のときよりずっと」
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もう一つ、気づいたことがある。今は、空間をいかに使うかが問われる時代でもある。中央に大きな作品を据え、それらしい光を当てれば陰影も生まれる。
でも、静岡展ではそんな「マジック」を使っていないように見えたし、今回も大きな空間を残して作品は散らばるように存在していた。「大きく見せる必要はないんですよ」。鴻池さんの言葉にはっとした。美術館が大型化し、大きな部屋が埋まるほどの大型作品が「すごい」と言われがちだ。だがここで、作家や美術館につきまとうイリュージョンをうさん臭そうに眺めているのだ。
先の会場では、美術館に「ふん(模型)」を展示するとは不快だとの声が寄せられたらしい。では、美術館とは誰の、何を展示するところなのか。作品とは、アーティストとは、美術館とは--。大きな「そもそも」を、一つ一つ身体を使って確かめずにはおれない。
すると、鴻池さんの周りで小さな竜巻が起こる。青森ではまず、設計した建築家の青木淳さんに会いに行って、美術館のデザインについて聞いた。車椅子は先の会場の学芸員が1館1館貸し出し依頼を行い、尋ねられた館は普段考えてもみなかった車椅子の取り扱いを巡って意見を交わし合うことになった。
鴻池さんは今回の巡回展を「リレー展」と呼ぶ。それは3館だけのことではなく、観客も含むたくさんの人の間で手渡される、という意味もあるように思えてならない。無数の手に触れられて鴻池さんのところに戻ってくるとき、最初に手渡したものは変化している。巡回展は、変化の道程そのものなのだろう。29日まで。
2024年9月2日 毎日新聞・東京夕刊 掲載