輪郭だけ描かれた人間の行列、巨大な飛行機が飛ぶ真下でひもにつるされたカラス、口を糸で縫われて塞がれた人間の顔--。黒と白の2色のみで描かれ、インクのかすれや版木の木目が生々しく刷られた版画が並ぶ。主体性を持たずに盲従する集団、迫り来る戦争と抑圧、言論の自由が許されない社会といったものを連想させた。
8月3、4の両日、津市役所に隣接する文化施設「津リージョンプラザ」で「津平和のための戦争展」が開かれた。太平洋戦争中の津市での空襲被害を語り継ぎ、平和の大切さを考えようと、毎年開催されている。会場には世界各地の戦乱での被害を伝える写真パネルなどが並ぶ。その一角に、戦争をテーマにした木版画約50点が展示されていた。
親子連れらが足を止め、真剣なまなざしで版画に見入っていた。三重県松阪市の高校2年、乾恵奈(えな)さん(17)は「戦争の怖さが伝わってきて、戦争は嫌だなと思いました」と話した。
それらの版画の作者は、久保舎己(すてみ)さん。津市で暮らし、家具職人やタクシー運転手をしながら木版画を彫り続けた。生涯で約2000点の作品と3冊の版画集を残し、2023年10月、75歳で死去した。熱烈なファンはいたものの、芸術団体に所属せず、賞を得ることにも興味がなかったためか、芸術家としてはほぼ無名に近かった。
だがその死から約2カ月後、状況は大きく変わる。
岩波書店が発行する月刊誌「世界」24年1月号が、各地の書店に並んだ。その表紙を飾ったのが久保さんの版画だった。作品名は「潜水艦の闘い」。コップの水の中で無数の潜水艦がうごめく様子が描かれていた。
日本を代表するリベラル誌「世界」は、この号から誌面を大幅に刷新した。久保さんの作品はリニューアルの象徴的な存在となり、以降、久保さんの版画が表紙と裏表紙に掲載されている。終戦直後の1945年12月に創刊した論壇誌と、無名の版画家を結びつけたきっかけは何だったのか。
◇雑誌「世界」表紙に作品
23年9月28日、津市郊外にある久保さん宅の電話が鳴った。「原爆の図丸木美術館」(埼玉県東松山市)の学芸員、岡村幸宣(ゆきのり)さん(50)からだった。同館は「原爆の図」で知られる丸木位里(いり)・俊(とし)夫妻が開館した。久保さんはその年の5~6月、病を押して丸木美術館での個展開催を実現させていた。岡村さんの用件は、「世界」からの掲載依頼だった。
電話があったとき、久保さんは寝室でふせっていた。22年8月にステージ4の胆管がんの症状が見つかり、症状が悪化していたからだ。電話機が置かれた居間まで歩くのがやっと。でもその朗報を聞くと、妻文世さん(77)に伝えた。「『世界』の表紙に決まった」。淡々とした口調ながら、喜びをかみしめている様子だったという。戦争の悲惨さや平和、命の大切さをテーマにした作品を数多く生み出してきた久保さんは、以前から「世界」を愛読していた。日記には「元気だったら飛び上がっていた」と書き留めていた。
「世界」編集部が久保さんを知ったのはごく最近で、しかも偶然に近かった。
「世界」編集長の堀由貴子さん(38)は22年10月に就任。歴史ある雑誌の軸を受け継ぎ、40代以上の男性が中心だった読者層を女性や若者にも広げようと、誌面リニューアルの検討を始めた。雑誌全体のデザインを依頼されたブックデザイナーの須田杏菜(あんな)さん(37)は、既存読者に距離感を持たれることなく、さらに新たな読者の心をつかむためにはどのような表紙がいいか、画家や写真家の作品を探した。丸木美術館のホームページを見たところ、そこにアップされていた版画に引きつけられた。直前まで開催していた久保さんの個展「ひとがゆく」を紹介していた。
「ひとがゆく」は久保さん最晩年のシリーズ作品。恒例となっている皇居の一般参賀の光景から着想を得たという。木彫りの人型をスタンプのように使う。そして人々が並んで歩いているように、輪になって集まっているようにと、さまざまなタッチで表現している。
須田さんが久保さんの作品を見るのは初めてだった。だがノンフィクション性に加え、社会、政治に対する鋭いまなざしが強く表れており、雑誌のテーマに合致すると直感した。さっそく見本を作って編集長の堀さんに提案すると、堀さんも「作品の世界観が、自分たちが抱いている今の時代への危機感と重なる。これで雑誌に重心ができる」と採用を決定。そこで作者の久保さんの連絡先を知ろうと、丸木美術館の岡村さんに問い合わせた。
だが久保さんは、表紙に自身の作品が載った「世界」を見届けることはできなかった。10月1日夕方に入院し、3日後に亡くなった。
久保さんの作品を表紙に載せた「世界」は、24年9月号で9号目になった。毎号の裏表紙にも使われており、18作品が読者の目に触れたことになる。
久保さんは生前、「作品を商品としてみたくない」と言い、売れ行きや高い値が付くことに執着しなかった。その一方で、多くの人の目に触れることに喜びを見いだしていた。文世さんは「本人がやってきたことが広く伝わり、喜んでいると思います」と話す。
記者は生前の久保さんを知らなかった。「やってきたこと」とは何なのか。知りたくなった。
■ ■
「世界の戦争や貧困に絶えず心を痛め、自分のことのように悲しむ男だった。『個人の自己表現としての版画や』と話しながら、命を削るように自分の思いを版画で表現していた」
久保さんについて、元高校教諭の金子遊さん(76)=三重県四日市市=はそう振り返る。35年来の親友で、久保さんが初の版画集を自費出版した時に編集・発行を担当するなど、活動をサポートしてきた。
久保さんは48年、津市で生まれた。高校卒業後、油絵を学ぶため上京。画家志望者が多く学んだ「寛永寺坂美術研究所」に入ったが、周囲の画学生と温度差を感じ、1年で帰郷。70年、「四日市ぜんそく」の原因となった石油化学コンビナートに対し、公害反対の運動に加わった。さらに成田空港建設に反対する三里塚闘争の支援のため現地を訪れたが、内部抗争に嫌気が差して政治闘争から距離を置いた。代わりに、自身の思想信条や政治への怒りなどを表現する場に選んだのが、版画だった。
74年、友人の紹介により、文世さんと結婚。翌75年に長女一葉(いちよう)さんが生まれ、その頃に木版画を独学で始めた。ドイツ表現派の巨匠で前衛芸術グループ「ブリュッケ」に属したエミール・ノルデの版画「預言者」の影響も大きかったという。
◇心まで売らぬ
77年に次女の歩(あゆむ)さん、85年に三女の未羽(みう)さんが生まれた。家族を養うために家具職人やタクシー運転手として働く一方、作品による収入は創作活動の資金に充てた。その理由を、晩年にこう書き残していた。「賃金労働と表現活動は別のものと考えていた。表現活動は私にとって精神の糧であって、たとえ賃金奴隷であっても精神、内面、心は売り渡さないでいようと決めていた」
さらに「巨匠や天才、高価な作品はそんなに面白いものでしょうか、凄(すご)くなくてはいけないでしょうか」とも記し、受賞や高価格での取引に否定的だった。一方で、多くの人に見てもらうための努力は惜しまなかった。個展を開くため、無料の会場を探したほか、津市内の商店街などの街頭で、洗濯ロープに作品をクリップでぶら下げて展示したこともあった。
また、当時は自身の個室はなく、夕食を終えると居間の片隅にある机に向かった。家族を犠牲にせず日々の暮らしを第一に考えていた、と文世さんは振り返る。個展を開く際はいつも家族が一緒だった。戦争などをテーマにしたシリアスな作風のイメージが強いが、子どもが生まれた喜びや、一家での海水浴の様子など、家族をモデルにした作品も少なからず残している。
久保さんは次第に自身の芸術の方向性を見定めていく。
84年には三重県立美術館(津市)で、ドイツの画家、ロータル・ギュンター・ブーフハイム氏(07年に89歳で死去)が収集したドイツ表現派による作品の巡回展が開かれた。ブーフハイム氏はドイツ映画「Uボート」の原作者としても知られる。それらの作品を見た久保さんは、後に「やっと心が通じ合える仲間に出会えた」と振り返るほど、強い衝撃を受けた。
また、ドストエフスキーや魯迅、夏目漱石や思想書などを読破した読書家でもあり、本から得た知識と思想に裏付けされた独特の作品世界は、見た人の心をわしづかみにした。雑誌「版画芸術」(阿部出版)の編集者だった岡部万穂(まほ)さん(51)もその一人。00年に久保さんを紹介する記事を同誌に掲載した。こうした記事なども呼び水になり、三重県など東海地方中心だった個展は東京や福岡、新潟など全国に広がった。
還暦を過ぎた09年、初の版画集「雨を喰(く)う人」(東海出版)を自費出版した。その後、長年の夢の実現に動き始めた。ドイツ表現派「ブリュッケ」の活動の中心地だったベルリンでの個展開催だ。
「ベルリンで個展をしたいんです」。10年12月、当時ベルリン在住の美術コーディネーターだった、河村恵理さん(48)=静岡県沼津市=にメールが届いた。2人に面識はなかったが、久保さんがインターネットで検索し探し当てた。
◇がん受け入れ、制作続け 本場で異例の反響
河村さんは当初、戸惑いを覚えたがベルリンで小さな画廊を探し、11年6月に「私のブリュッケ」を開催。約30点を展示し、久保さんは文世さんらとともに現地へ行った。3週間の期間中、来場者は後を絶たず、作品12点が購入された。無名の日本人作家の個展としては異例の反響だった。
久保さんは手応えを感じた。河村さんに編集を依頼し、13年に日独英3カ国語の版画集を刊行した。河村さんは展覧会開催を希望する手紙を添え、ドイツ国内35カ所の美術館や画廊に画集を送付した。
ほどなくして、バイエルン州のブーフハイム美術館から「久保さんにつないでほしい」と返信があった。この美術館は、三重県でドイツ表現派のコレクション展を開催したブーフハイム氏が創設した。彼は既に亡くなっていたが夫人が存命で、84年に夫と三重を訪れていた。病床にあったが、久保さんの作品の展示を決めた。
18年6月23日。ブーフハイム美術館で開幕した個展のオープニングで、久保さんはこうあいさつした。
「三重で84年に開催されたドイツ表現派展は、私の版画表現に勇気と可能性を抱かせてくれた。それから34年たち、ここブーフハイム氏の美術館で展覧会が実現した。夢のようです」
個展は3カ月間という長期となり、作品約100点が表現派の作品と関連付けられて展示された。うち14点は美術館側が買い取り、収蔵した。驚くほどの厚遇だった。
22年7月、埼玉県東松山市の「原爆の図丸木美術館」に個展開催を希望するメールを送った。「安全保障環境の変化」を理由に防衛力増強などに突き進む日本への危機感から、「原爆の図」の常設展示などで反戦と平和を訴え続ける同館での展示を望んだ。
同館学芸員の岡村さんは、久保さんからのメールを読んで戸惑った。久保さんについて全く知識がなかったからだ。だが、画集を取り寄せるなどしてその作品世界を知ると「時代に対する批評性を持っているのに、日本であまり紹介されていない。ここで個展を開く意味がある」と前向きになっていった。ちょうどその頃、久保さんががんを告知されたと知った。
岡村さんは日程を可能な限り前倒しして、翌23年5~6月に開催。開幕日、同館を訪問した久保さんは、体調が悪く別室で休んでいる時間が長かったものの、満足した様子だったという。文世さんによると、「静かに受け入れるしかない」と抗がん剤や放射線の治療は受けないまま、個展の開催と制作を続けた。
亡くなる9日前、23年9月25日に制作した「無題」が最後の作品となった。彫刻刀を入れていない版木に塗ったインクの拭き取り具合などで表情を出したものだった。
今月発売された「世界」最新号のテーマは「教育とジェンダー」。表紙には女性が背を向けて横たわっている様子が描かれている。タイトルは「なにもしなくていいんだよ」。読者はさまざまな想像を巡らせているに違いない。
また、久保さん亡き後も各地で展示され続けている。親友の金子さんは、作者がいない会場で、人柄と作品を解説している。そしてこう語った。
「小説家にしろ画家にしろ、作品は後世まで生き続ける。多くの作品を残した宮沢賢治も、生前に刊行されたのはごく一部だった。同じように、久保さんの作品はこれからも見る人に評価され、共感され続けていくと思います」
2024年8月25日 毎日新聞・東京朝刊 掲載