「福岡道雄 静かな前衛」展の展示風景。手前は水面が彫られた箱形作品「マサンダ池」(1991年)、奥が「ブラックバルーン」(2002年)

 「つくらない彫刻家は前衛であるか?」。昨年この世を去った彫刻家の福岡道雄が、亡くなる数年前にメモしていた言葉だ。19歳で彫刻を始めて70年。うち晩年の20年近くは「つくらない彫刻家」として生きた。地続きの「つくる」と「つくらない」を行き来しながら、「先は見えているか」と常に自分に問い、誰とも違う道をひとり歩んだ福岡。その回顧展が故郷の大阪・堺で開かれている。9月1日まで。

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 「さかい利晶(りしょう)の杜(もり)」(堺市)で開催中の「福岡道雄 静かな前衛」展。出展は15点と多くはないが、デビュー時のシリーズから「つくらない」宣言後のものまで、各時代の作品が並ぶ。

 1936年、堺市生まれ。大阪市立美術研究所で彫刻を学び、58年、画廊で初個展を開催した。公募展が主流の時代、フリーとしては異例の早いデビュー。以来、団体には所属せず、同時代の潮流とも距離を置き、独自の創作を続けた。

FRP(繊維強化プラスチック)に電動彫刻で文字を彫り込んだ平面作品のシリーズ。左は「何もすることがない・7月(KUSAMA)」(99年)、右は「何をしていいのか分からない・7月(額紫陽花)」(同)。いずれも部分

 例えば黒い箱形彫刻のシリーズ。「コンセプチュアル」が席巻した70年代から世がバブルに沸いた90年代前半までの約20年にわたり、釣りや草むしりといった日常の風景を黙々と形にした。90年代の終わりには「何もすることがない」などのフレーズを刻んだ平面作品を制作。社会のありようや自身の創作に対する焦りや虚無感をくりかえし彫り込んだ作品には、絶望の向こうにほのかなユーモアがにじむ。

 一つのシリーズをとことん突き詰めると「つくらない」期間が訪れ、その後、まったく新しい作品を生み出す――を繰り返した。釣りや草むしりに没頭したつくらない時間は、つくれない苦しい時間である一方で、深く静かな思索の時間でもあった。会場で流れる2004年収録のトーク映像では「つくってる時ってのは、ほとんど作業なんです。僕は、つくってない間が彫刻家だという気がします」と語っている。

 会場は現代美術とは縁のない施設だが、運営ディレクターの山本真里奈さんたっての希望で実現した。特にこだわったというのが「ブラックバルーン」(02年)の展示。60年代に制作した「ピンクバルーン」シリーズの再制作作品だ。一貫して「彫刻らしさ」を否定した福岡が選んだ「彫刻らしくない色」であり、「夢のある色」でもあったピンクの風船は、40年近い時を経て「全く異質な不安と危惧を感じ」、黒になった。そこからさらに20年。山本さんは「今の時代と重なるとも思うし、ずっと解決されずに続いていることだとも思う」と受け止める。

「ブラックバルーン」の一部にも、「何もすることがない」の文字が彫り込まれている

 トーク映像に協力した美術家の松井智恵さんも「繰り返し出会う作品は、さっと見て通り過ぎることができない。2回、3回とみることで見え方が変わってくるものには、一つにくくられない普遍性が含まれている」と話す。01年の米同時多発テロと03年のイラク戦争の間に作られた黒い風船は、今また新しいメッセージを帯びて空中を漂う。

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 「彫刻らしさ」の否定は、マッチョな「男らしさ」の否定でもあった。「男の世界はもういいんじゃないか」。トークでそう口にし、雌雄同体のミミズに魅力を感じると語った福岡は、実際翌年の「腐ったきんたま」展(05年)を最後に、制作をやめた。自らに課した引退の背景には、ミミズの作品に60年代と通じるものを見いだし、「イメージが一周した」と感じたこともあったという。

 本展では「腐ったきんたま」に乗ったミミズの2作品の横に「つぶ」(12年)が展示されている。図らずも生まれたという小さな粒を唯一の例外として、福岡は亡くなるまで「つくらない彫刻家」を貫いた。

右から「怒る蚯蚓(みみず)」と「笑うミミズ」(いずれも2005年)。左は「つぶ」(12年)

 「つくることも、草むしりすることも、空を見上げることも、ご飯を食べることも、すべてが父の日常だったんだと思います」。長女で陶芸家の福岡彩子さんは、作品こそ作らなかったが思考は続けていた父の姿を思い返し、「つくらなくても彫刻家であり続けられた人だったんだな」と感じている。

自著の見本版をメモ帳代わりにしていた

 アトリエには冒頭の言葉をはじめ、時々の思索の跡が残されていた。「つくり忘れたもの ミミズの糞(クソ)」。そんなメモ書きもあったという。

2024年8月19日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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