「マリリン」の展示風景

 箱根(神奈川)の山にある美術館なのに、緑を感じつつも窓のこちら側の展示室には異空間が広がっている。ポーラ美術館で開催されている「フィリップ・パレーノ:この場所、あの空」展は、日常と地続きにある見知らぬ世界にそっと足を踏み入れたような、そんな感覚にさせる。

 フィリップ・パレーノさん(1964年生まれ)は現代フランスを代表する作家。映像や音、彫刻、オブジェなど多岐にわたるメディアと、AI(人工知能)など科学技術を用いて創作している。日本でも2019~20年に東京・ワタリウム美術館で個展を開催し、25年には国際展「岡山芸術交流」のアーティスティックディレクターに決まっている。現在、ソウルのリウム美術館でも大規模個展が開かれている注目の作家だ。

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 展示室に入ると、たくさんの魚が浮いていた。ヘリウムガスを入れたバルーンによる作品「私の部屋は金魚鉢」だが、愛らしいのかというとちょっと違う。浮遊する魚にはリアルな模様がプリントされ、目まで描かれている。見に来た人と戯れるようで、時おり思いも寄らない方向にふらふら逸脱する。

「私の部屋は金魚鉢」

 次の部屋は様相が違った。映像作品「マリリン」を中心に、作品を組み合わせている。マリリン・モンローが、映画「七年目の浮気」出演のために住んでいた米ニューヨークの高級ホテルを舞台にしたものだという。

 カメラは室内をなめるように映し、女性の語りでインテリアが描写される。机には飲み物や雑誌が置かれ、くつろぎの痕跡を見つけることができる。カメラは文字を書く万年筆のペン先を大写しするが、ペンと紙がこすれる音が心をささくれ立たせる。そこにいるべき人の姿は見えない。

 鑑賞者の横では自動演奏のピアノが不穏なメロディーを奏で、溶けない雪が小山をつくる。

 カメラが引けば、そこは虚構の世界だと分かる。映像が消え、背後のスクリーンが上がり、窓の外にある「ヘリオトロープ」のミラーが太陽の光を捉えて不気味なオレンジ色に染まる。それは自動で角度を変えながら展示室に光を届けて、虚構が終わった後の現実がまた劇場になる。

「ヘリオトロープ」に照らされたスクリーン

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 パレーノさんは「私にとって、作品は楽譜の音符のようなもの」だと言う。「どう並べるかどう弾くかによって、新しい曲になる」。作品が単体で完成するということはなく、英語版展覧会タイトル「Places and Spaces」のように、その土地、その場所によって作品が組み合わされて再構成され、アップデートされるのだという。「ものをつくるのが目的ではなく、いかに展覧会をつくるか。太陽光はどう入るか、建築は……。この場所を読み込むのです」

 下の階には、ドローイングを展示した一室がある。「マリリン」のために描いたものや、闘病中に描き始めたという「ホタル」のシリーズなど、物語を喚起するようなイメージが並ぶ。

 「ホタル」は映画監督・詩人のパゾリーニが75年に発表した社会評論から喚起されたもの。初期作品としてかつて、閉館後の夜にだけ点滅する、鑑賞者は見られない作品をつくったといい、今回も同様にパゾリーニのテキストだけが室内に示された。

 パレーノさんは「何かに注目する行為が作品」だと考え、それが「ホタル」にも表れている。「ホタルが生殖のために光を発するのはごく短い時間だが、呼びかけに応じて目を向けることにひかれる」。視覚だけに頼るのではなく、見た後に頭に残るイメージみたいに、呪文をかけられたような効果を生むのがアートなのだと言う。

 ドローイングの部屋は、ガラスケースを置いたなじみのある展示かと思いきや仕掛けがある。パルスが律動するようにガラスが部分的に不透明になったり、絵に照明が当てられたり。めまぐるしく見えるものと見えないものが入れ替わり、軽い破裂音と共にリズミカルに明滅するさまは、普段静かなはずの展示ケースが語りかけてくるようだ。

ランプ「幸せな結末」のほか、ドローイング中心に展示する部屋

 ほかに、スタジオで飼っていたというコウイカが登場する宇宙的な映像作品「どの時も、2024」や吹き出し形のバルーンが天井を埋め尽くす「ふきだし(ブロンズ)」なども展示している。リウム美術館でも魚をはじめ、バルーン作品を見られるらしいが、「Places and Spaces」の言葉通り、異なる鑑賞体験となるのだろう。12月1日まで。

2024年7月1日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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