東京・恵比寿の東京都写真美術館。グループ展「記憶:リメンブランス」(6月9日まで)には、ロンドン在住の写真家、米田知子さん(1965年生まれ)の作風を象徴するような写真が並ぶ。
駅のプラットホームを遠くから捉えた1枚。日本の駅のようでもあるが、よく見ると、日本語ではない漢字の言葉が柱に書かれている。真ん中にぽつんと立つのは駅員だろうか。写真はいかにも寒そうな薄いトーンで、駅員らしき人は暖かそうな帽子とコートを身につけている。少し不安を覚えるのは、ホーム上にはこの人以外誰も見当たらないからだろうか。
タイトルを読むと「プラットフォーム-伊藤博文暗殺現場、ハルピン・中国」とあり、ここで過去に起きたできごとに気づく。
あるいは、澄んだ光に照らされた屋外のアイスリンクを写した1枚。川が凍り、スケートを楽しむ人が点在していて、防寒着の赤や黄色が楽しげな雰囲気を添えている。タイトルは「アイスリンク-日本占領時代、南満州鉄道の付属地だった炭坑のまち、撫順」。他にたくさん展示されるのは、韓国の非武装地帯(DMZ)で撮影した作品。太陽に照らされ、有刺鉄線にしぶとくマーガレットが絡む。北朝鮮を望む田園地帯で撮影された1枚には、鏡を持つ人がいて、鏡は「向こう側」を映している。
そこにあるのは、ある時代にあった、もしくは今もある境界線だ。
「私がイギリスに住み始めたころ、ヨーロッパは冷戦が終わったという喜びにあふれていました。これから新しい時代が来るのだという希望がありました」。米国の大学を経て、ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートに入学したのは1989年。ベルリンの壁が崩壊し、ポーランドで自由選挙が行われ、ハンガリー共和国が誕生した、そんな年だった。その後、ソ連が崩壊し、欧州連合(EU)が拡大。世紀の変わり目はポジティブな空気のなかで迎えた。
「子供のときの記憶から、やっと逃れられたような気持ちになりました」
幼いころ、両親はよく戦争の思い出を語った。父は神戸市出身、母は高知市出身。田舎に疎開した父は赤いクレヨンを見て「食べたらイチゴの味がするかな」とおなかを鳴らした。母は逃げ込むはずだった防空壕(ごう)が爆撃され、死体が折り重なるのを見た、と話した。
冷戦のまっただなかで、「自分がその時代に生まれて父が兵隊にとられたら、原爆が落ちたら」と想像し、夢でも「戦争がまた起きたら」とうなされた。「思えば、私が生まれたのは、戦争が終わってまだ20年」。武装したまま、フィリピンのジャングルに潜んでいた小野田寛郎さんが帰国したのは、74年。そのニュースもよく覚えている。
米田さんの写真は二重性を備えている。それは、今、東京都写真美術館で展示されているシリーズを見ればよく分かる。歴史や個人の記憶を巡り綿密に調査して撮影に臨むが、感情をあおったり、手がかりになるようなものをことさら強調したりしない。だが、写真に広がる静かな空間を見つめ、背景にあるものに気づいたときには小さな恐怖が襲う。土地が持つ負の記憶は、たいていはあからさまに見えない。だから必要なのは、注意深く目を凝らし、どんな場所なのか想像を巡らせるような態度だ。
ロイヤル・カレッジで学んでいたときのことだ。教授から「祖父は日本軍の捕虜だった」と言われ、衝撃を受けた。その後、天皇陛下の英国訪問に際して起こったデモも目撃した。立場が変われば見える風景も変わる。ヨーロッパから、自然とアジアにも目が向くようになった。
写真を見て、「きれいな風景」で終わる人もいるかもしれない。「でも、作品は教条的に導くものとは考えていません」と答える。「何年か後にふと思い出して、『あの時に見た写真はなんだったんだろう』というのでもいい。静寂なイメージのなかのざわつきに目を留め、私たちが日常で何を見過ごしているのか考えてほしい」
「希望」が訪れた、と思ったのに、今また戦争が続く。米田さんは言う。「(作家の)スーザン・ソンタグも言っていましたが、私はコンシエンス(良心)を大切にしたいのです」
2024年5月19日 毎日新聞・東京朝刊 掲載