今年はコロナ禍の衝撃が一息つき、久しぶりに年間を通じてさまざまな展覧会や作品集に恵まれた一年だった。近年のスマートフォンにおけるカメラ機能の飛躍的な向上を受け、デジタルカメラ市場は下降の一途をたどっているが、そのような激動する環境を反映してか、写真というメディアの特性を問う試みが目立った。
たとえば第46回木村伊兵衛写真賞を受賞した吉田志穂の写真集『測量―山』は、インターネット情報や画像検索で入手できるイメージと、現地で実際に撮った写真を組み合わせ、今日における写真の経験のあり方を問うた。東京都写真美術館で開かれた「見るは触れる 日本の新進作家vol.19」展も、多和田有希ら5名の作家による写真の物質性や知覚構造に取り組んだ作品を紹介した。さらに、オノデラユキら7名の写真家がアーティストコレクティブとして、写真というメディアに関する自分たちの言葉と作品から構成した『Photography? End?』を刊行した。
19世紀前半に誕生して以来、写真は長らく絵画とお互いに影響を与えあってきた。東京・アーティゾン美術館ではその歴史を踏まえて「写真と絵画―セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策」展が開催された。柴田と鈴木による写真作品約240点と、セザンヌの作品を起点とした石橋財団コレクション約40点で構成され、写真と絵画が緩やかに共存する中で「見る」豊かさを実感させる内容だった。「野口里佳 不思議な力」展(東京都写真美術館)、「川内倫子:M/E 球体の上 無限の連なり」(東京オペラシティアートギャラリー)も、それぞれに写真を通して世界を見ることの尽きない魅力を掘り下げた。
20世紀最大の画家とたたえられるドイツのゲルハルト・リヒターも、絵画と写真の関係を長年探究してきた。その大規模な回顧展が東京国立近代美術館で開催された(その後、愛知・豊田市美術館へ巡回)。なかでもアウシュビッツ収容所においてユダヤ人特殊部隊によって隠し撮りされた写真をもとにした大型の絵画作品「ビルケナウ」4点が、元となった写真(複製)と一緒に展示され、困難な状況で「見る」ことの倫理を強く問いかけた。
確かに今後、写真という既存の枠組みはますます変化してゆくだろう。しかしどのような時代になっても、人間の眼(め)とは決定的に異なる「カメラ」を通して世界を観察することの意義は変わらない。そのことを実感させた一例は、第41回土門拳賞を受賞した北島敬三の写真集『UNTITLED RECORDS』である。約20年にわたって撮影されてきた、まるで遺棄されたような風景の数々は、私たちが直視すべき日本のもう一つの現実であるに違いない。
今年鬼籍に入った写真家には、『ニューヨーク』などの伝説的写真集で知られる米国のウィリアム・クライン、日本写真家協会会長などを歴任した田沼武能(1929年生まれ)、南極大陸などの写真で知られる白川義員(同35年)、報道写真家の三留理男(同38年)らがいる。
2022年12月14日 毎日新聞・東京夕刊 掲載